マタイによる福音書8章18~27節

ひたむきに道を往く

 

 今朝の御言葉には「わたしに従いなさい」との主イエスの言葉が記されています。聖書によって天の国に至る道がはっきり示されたとはいえ、そこを最後まで歩み通すには忍耐が要ります。迷いの多い世の中で、ひと時、イエス・キリストの素晴らしさに目を開かれて、このお方に従って行こうと思いましても、別の関心事が次々と起こって来まして、途中でもう信仰もどうでもよくなってしまうなどということがあります。

具体的な話をしますと、私たちの日本キリスト改革派教会では、毎年統計を取っておりまして、教会員数の増減や礼拝出席者の推移を会議に報告することにしています。その資料を見ておりますと、私たちの教会は今のところ何とか教勢を保っておりまして、教会員の数そのものには大きな変動はありません。ですが、毎年全国の教会合わせて数十名の受洗者や加入者が報告されているのですから、教派全体としては僅かでも伸びているはずなのですけれども、全体の数に変化がないということは、それだけ教会から離れた方々があることを表しています。これは大抵の教派がそのようなものと思われますが、教会という処はどうしても出入りがあるものです。その出て行かれた兄弟姉妹の中に、信仰から離れてしまった人も、具体的にどれだけかは分かりませんがあるわけです。

キリストの道をひたむきに天を目指して歩んでいくのが信仰ですけれども、それを全うするには、聖書の御言葉に聴き続け、礼拝の恵みに与り続けることが欠かせません。もう一つ、今日の御言葉の中に「信仰の薄い者たちよ」とのイエスの呼びかけがあります。これは従って来る弟子たちに向けて呼びかけられた言葉で、マタイ福音書で他にも3回用いられます。元の言葉通りいいますと、「小信者」とでも言うような一つの語でして、尤も、心が小さいのではなくて信仰が小さいということなのですが、主イエスは弟子たちの、そうした覚束ない信仰の在り様をよく知っておられて、時折この言葉で呼びかけておられます。先には揺るがない岩のような信仰をもった百人隊長のような人が現れましたけれども、およそ主イエスに従う弟子たちは「信仰の薄い者たち」なのでして、時々そうした叱責を受けながら、それでも愛していただいて、「わたしに従え」と言っていただいて、信仰の道を辿ってゆきます。今朝の御言葉も、小さな信仰を与えられた私たちが、より確かな信仰をもつようになるための導きとして与えられています。二つの話が「従う」というキーワードで結ばれていますので、順にそこから学びたいと思います。

 主イエスの周りには病を癒された人々が大勢群れをなして取り巻いていました。イエス・キリストの言葉と業を通して神の恵みに触れたものは大勢います。ですが、主イエスと共に「向こう岸」に渡って行くのは弟子たちです。それはイエスが招かれたのには違いありませんが、自ら従って行こうという意志をもったものがイエスの後をついていきます。

 そこで二人の人物が順にイエスのもとへやって来て、その意志を表します。最初の人物は律法学者でした。聖書の専門家として人々を教える立場にあった人です。おそらく、先に語られた主イエスの教えや癒しの業に触れたのでしょう。当時、ユダヤの人々は、これと思う先生を自分で選んでその弟子となり、教えを乞うのが常でした。いよいよ本当の師匠に巡り合った、と思ったのでしょう。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」とはよほどの決意です。けれども、イエスは「そうか」と行って彼を弟子に迎え入れたのではありませんでした。

 主イエスの答えは次のようなものです。

  狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。(20節)

ここには、律法学者である彼に対する批判的な含意があるのかも知れません。「狐」や「空の鳥」は、神が創造された自由な動物であることも確かですが、他方、旧約聖書ではそれらの動物が「死体をついばむもの」として描かれることもあります。旧約聖書では「山犬」とも訳されます。そうしますと、あなたがたには自分の身を安全に保っておく場所があるだろう、ということになります。律法学者であれば、それは古くからのしきたりに守られた民族共同体であり、そこで恩恵を被っている今の立場です。けれども、「人の子」として来られたイエスには、そういう家はない。生涯旅を続けられた主イエスならではの言葉ですが、このお方についていくためには、この世に住処をもつことは適わなくなります。律法学者が勇んで発した言葉は、まずそこから問い直されます。

 同じことが次の人物との対話で繰り返されて、補完されます。続いてやって来たのは弟子の一人でした。彼はすでに弟子ですから、もう主の御言葉を聞いてきて、癒しの業をも見て来て、ここまでずっとイエスについてきています。けれども、「向こう岸」に渡る前に、ここで大事な用事が出来てしまった。それは、「父を葬りにゆくこと」でした。親の埋葬を丁寧に行うのは、今もそうですが、当時のユダヤ人たちにとっても、子どもたちの大切な義務でした。旧約聖書でもエリシャが預言者エリヤの弟子となるとき、まず両親に挨拶をさせてくれと申し出て、エリヤはそれを許可しています。けれども、イエスは次のようにその弟子に言われました。

 

  わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。(22節)

主イエスは、この世のしがらみに煩わされずに直ちに従うよう弟子に求めました。

両親を軽んじてよい、というような律法に反することをイエスはお命じになったのではないでしょう。その弟子が主イエスに従う決心をする以前に属していた世界はもはや自分の居場所ではないことを、はっきり自覚することが必要とされました。

「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせる」とは、彼がかつて属していた世界は、罪のために死に定められている世界であるとのことです。イエスに従うとは、神が人を滅びる定めから救われて命へと移されたことから生じる、人の側からの応答です。ですから、救いを得るためには、まず、何よりも神が救い主として世に送られたイエス・キリストを第一とすることが、すべての人に求められます。

 律法学者のようにイエスに対する自分本位の不確かな見積りで従うのではなく、一人の弟子のようにこの世のしがらみに後ろ髪引かれながらではなく、神の言葉をもって私たちを確かに命に至らせる方をそこに認めて、イエスと共にひたむきに道を往くのが真の信仰であると、主は教えておられます。カルヴァンはここを解説して次のように言っています。

「神に従うためにあらゆる勤勉さと生活を用いる者が真に生きるのであり、また、この世に執着し、人々を喜ばすため、神を忘れる者は『死人』のようであり、死者に気を取られて時機を逸する」。

 信仰者はこの世と関わらないということではなく、キリスト教会はこの世界から隔離されたユートピアでもありません。けれども、信仰というのは、私たちの側で生活の中に取り入れる、人生の一部、というのとは違います。巷では宗教は有益だけれども「深入りするな」と言われたりもします。つまり、信心というのは心に安定をもたらしたり、人生に教訓を与えてくれるから良いものだと評価するけれども、宗教に入れ込んで生活を食いつぶしたり、周囲とのいさかいを起こされては厄介だ、ということなのでしょう。確かに、深入りして困る宗教というものもあると思いますが、本来、信仰というものは深入りしないで信仰とはいいません。「信じる」のですから、その点では理屈を越えるのでして、神を信じたときには人生観ばかりでなく、日常生活にも変化が起こるものです。キリスト教信仰の根本は、神が私たちを死者の世界から根こそぎ引き抜いてしまって、イエスに従って神の国に生きる者とされた、ことにあります。カルヴァンは、また次のように述べています。

「神がどこかで御自身に仕えることを私たちにお命じなるとき、人間に対して私たちが為さねばならぬすべての義務は中止される」。

この優先順位は、キリストに従う弟子たちの日常生活の中でさまざまに問われて、実践されます。

 23節から、もう一つの話が続きます。イエスは舟に乗りこまれました。そして、弟子たちは従いました。弟子たちはこの湖で―本当は言葉の上では「海」なのですけれども―湖の上で、主イエスが嵐を静める奇跡を目の当たりにします。

 この「舟」は教会をよく表しています。ノアの箱舟が原型になるかも知れませんが、湖の上をゆく舟にはイエスを中心とした弟子たちの交わりがあります。そこへ突然の嵐が襲います。「嵐」という言葉は別の箇所では「地震」と訳されている言葉です。つまり、ここでは雨風の強さよりも「揺れ」が強調されています。小さな舟は揺れに揺れ、幾つもの波が舟を呑み込もうとします。そんな中で、イエスは静かに眠っておられました。命の危険に晒されて、弟子たちは主を呼び求めます。「主よ、助けてください」。この率直な救助の嘆願は、詩編にもよく出て来ます。そして、「おぼれそうです」とありますが、ここは「滅びてしまいます」と読むべきところです。つまり、弟子たちは命の危険に晒されて、自分たちが死んで滅びてしまうと恐れたのでした。すると、イエスは弟子たちに答えて行動を起こし、嵐を静めてくださいました。ただ、その際に弟子たちの臆病を咎めておられます。「なぜ、怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」。イエスは確かに眠っておられました。けれども、弟子たちと一緒に舟の中におられたのも確かです。小さな信仰といわれる弟子たちには、「インマヌエル」の意味がまだ十分には分からなかったのでしょう。

 弟子たちは、自らイエスに従って舟に乗り込みました。けれども、イエス御自身のように、神の支配に完全に服従するほどの信仰ではありませんでした。ですから、舟が大揺れに揺れたとき、イエスが共におられるから大丈夫、とは思えなかった。弟子たちの小さな信仰は、ここでは臆病と捉えられています。これもまた、死者の世界に属する者の態度です。そこで、弟子たちに対して、イエスは風と湖をお叱りになることで、御自分に与えられている、自然をも支配する神の言葉の力をお示しになりました。

 教会はこの弟子たちのように小さな信仰の者たちの集まりです。時々そういう中に、イエス御自身を彷彿とさせるような聖人めいた人が現れるのも確かですが、およそ私たちはこの世のしがらみに心を奪われたり、教会を揺り動かす問題に心を騒がせたりします。そういう教会を主はよく御存知の上で、「わたしに従いなさい」とお命じになり、私たちと共にいてくださいます。私たちは、この教会の中に主が共におられることを信じます。その主イエスはこの世の一切を治める権威を神から与えられたお方です。時に迫害を受けたり、信仰が否定されたりして、神は何をしておられるのかと、イエスは眠っておられるのかと動揺するようなことがあっても、信じて従う私たちの命は主イエスと共にあります。何事があっても動揺しないような信仰があればよいのかも知れませんが、それも愛がなければ無に等しいと言われますし、慢心がそこに入り込まないとも限りません。むしろ大切なことは、小さな信仰であることを自覚しながらも、主イエスによって天の国に至る命の道に招き入れていただいたことに感謝して、御言葉に聞きながら、ひたすらに信仰の道を歩んで行くことにあります。主イエス・キリストを真の神として私の生活の中に受け入れ、そのお方に従う心をいつも新たにしていただくよう願ってまいりたいと思います。そして、神にあって生きる者として、周囲に置かれた人々の間に遣わされて、神の御栄光を求めて参りましょう。

祈り

天の父なる御神、私たちは聖書に導かれて主イエスを真の救い主と信じて従って来ましたけれども、あなたの御前にあっては小さな信仰の者に過ぎず、あなたに生活を明け渡すことをせず、御言葉の力に信頼し切ることができないでいます。どうぞ、主に従いたいと願う私たちに復活の命を確かに信じさせてくださり、あなたの子として、また、主に従う弟子として、信じた道を終わりまで辿らせてください。この礼拝から遠ざかり、あなたの御前に進み出ることが出来ないでいる兄弟姉妹たちの信仰をも、どうぞあなたが守り支えていてくださいますようにお願いします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。