ヨシュア記5章1〜15節「次世代との契約」

 

主の戦いに備えて

 イスラエルの人々は、指揮官ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡りまして、いよいよ約束の地カナンに足を踏み入れました。その先頭に祭司たちが担ぐ契約の箱がたったことは、イスラエルが神の御言葉に導かれて目標に到達したことを指しています。民はヨシュアの口から出される命令を、モーセの律法として聞く決心をして、ここまで従って来ましたが、これから始まるカナンでの戦いも同じ決意で臨みます。

 ヨルダン川で示された奇跡は、ヨルダン川の西側にいるアモリ人の王たちとカナン人の王たちの耳にも伝えられました。それは、イスラエルの神である主がなさったことと聞いて彼らは震え上がりました。「心が溶けて、霊が消えた」とあります。この状態は、かつてイスラエルの第一世代がカナンを偵察した時の心のありようでした。そのとき彼らは神につぶやいてこう言いました。

 主は我々を憎んで、エジプトの国から導き出し、アモリ人の手に渡し、我々を滅ぼそうとしておられるのだ。どうして、そんな所に行かねばならないのだ。我々の仲間も、そこの住民は我々よりも強くて背が高く、町々は大きく、城壁は天に届くほどで、しかもアナク人の子孫さえも見たと言って、我々の心を挫いたではないか。(申命記1章27、28節)

しかし、主を信じたヨシュアたち第二世代の人々は、主が共にあって「強く雄々しく」約束の地に進んで来ました。真の神と共にあるイスラエルに対して、カナンの王たちはもはや立ち向かう気力さえ奪われ、戦う前から勝敗は決定しています。イスラエルはこうして世代交代に当たって、信仰によって大きな障害を克服しました。真の神を信じて従う決心をし、その神の約束と力を信じて前進するとき、挫かれた心も強くされて嗣業の地にたどり着きます。讃美歌にもありますように、信仰こそがイスラエルの旅路を導く杖です。

割礼の再施行

 エリコへの進軍を前にして、イスラエルには新たに二つのことが命じられました。割礼の実施と過越の祭です。どちらもモーセの時にはシナイ山で実施されました。第二世代もイスラエルの為すべきことを忠実に踏襲してゆきます。割礼は神がアブラハムにお命じになった契約のしるしです。荒れ野で生まれた第二世代は40年の旅の間は割礼を受ける余裕が無く、ヨルダンを越えた時点でヨシュアによってそれが初めて実施されます。割礼によって聖別されて、イスラエルの新世代はさらに神の民として続く働きのために整えられます。

 割礼というしるしは、エジプトやエジプトの文化圏にあっては珍しくないものでしたが、バビロニア等メソポタミアではイスラエル人とそうでないものを区別する証となりました。後々、このことは世界各地で離散するユダヤ人たちには民族的な結束をもたらす重要な意味をもってきます。割礼を受けても「主の御声に聞き従わなければ」神の約束は果たされないことが今日のところでもはっきり告げられていますから、パウロが述べている通り割礼よりも信仰が重要なのは明らかです。

 9節ではイスラエルの新たな駐屯地とされたギルガルという町の起こりが、割礼の意味と結びつけられます。「ギルガル」とは「転がす」という意味です。そこからすると瓦礫の町であったのかとも想像しますが、9節では「エジプトでの恥を取り除く」と説明されます。大きな石を転がして取り除くように「取り除く」のでしょう。「エジプトでの恥辱を取り除く」とはどういうことを指すのか正確には計りかねますが、ギルガルで新しい世代がすべて割礼を受けて、神との契約を改めたところで、エジプトで奴隷であった古い世代の恥はもはや完全に拭われた、ということでしょう。こうしてギルガルはイスラエルの新しい出発を記念する町となりました。

 ここでイスラエルの世代交代について考えてみますと、神は御自分の民に相応しい指導者をその世代ごとに与えて、御自身の道を進ませます。その時、新しい世代は古い世代が辿った信仰の道を同じように辿り直すのですけれども、いつも世代ごとに新しい心で神との契約に臨み、信仰によって歩む決意が求められます。その決意においては、父祖の信仰を受け継ぎながらも、父祖の辿った不信仰の故の裁きは避ける、という両面が意識されます。そうした契約の更新によって、イスラエルの恥が過去のものとなり取り除かれるよう案配されています。主イエスを媒介して旧約から新約へと大きく世代交代がなされる節目にも、古いものに死に、新しいものに生きるという契約の更新が当てはまります。

エリコでの過越祭

 新しい世代は定められた時節に過越祭を祝いました。このギルガル=エリコでの過越祭も世代の交代を表わす機会となっています。イスラエルの人々は「乳と蜜の流れる地」にたどり着いて、その土地の産物を手に入れることができるようになりました。荒れ野の時代を特徴付ける「マナ」による養いは、この時に終わったとあります。マナは確かに天からの恵みでしたが、先代たちはその貧しい食事に時に不平もいいました。そのつぶやきもここで終わるのでして、神は確かにアブラハムに与えた「土地を与える」との約束をこのヨシュアの世代において果たしてくださったのでした。

主の軍の将軍

 このようにして選びの民イスラエルらしく整えられて、民は土地の取得のために戦いに出て行きます。その戦いに先立って、ヨシュアのもとに「主の軍の将軍」が現れました。戦争に先立って抜き身の剣を手にした女神が現れるという話はアッシリアにもあるそうですが、ここに登場する将軍もまた御使いなのでしょう。これとよく似た話は民数記22章にまず出て来ます。異教徒の預言者バラムがイスラエルを呪うために雇われて、ロバに乗ってモアブの王のもとへ出かけてゆく時、抜き身の剣を手にした天使が道に立ちはだかります。そこで、バラムは天使の告げる言葉だけを語るように命じられて改めて送り出されました。つまり、こうした天使の出現は、僕が神の御旨を行うことを確実にすることを促す意味があると考えられます。もう一カ所は歴代誌上21章ですが、そこでダビデの人口調査に怒りを発せられた神が御使いを送ってエルサレムを滅ぼそうとされます。そこでダビデが目にしたのは、「主の御使いが地と天の間に立ち、剣を抜いて手に持ち、エルサレムに向けている」姿でした。ダビデは罪が自分にあることを述べて執り成しをはかり、それによってエルサレムは滅びを免れるのですが、ここに現れているのも神から裁きをもたらす権限を与えられた天使の存在です。主の戦いが、このように抜き身の剣を手にした天使によって示されて、そこで行われる主の裁きに目を止めるように注意が促されます。イスラエルに用意されたエリコの戦いも、そうした主の戦いとして、神の裁きが現れる場面であるということです。ヨシュアは「味方か、敵か」と問いましたが、主の軍の将軍は、そのどちらでもなく、主の側に立つと答えています。ヨシュアが主の御旨を行うならば味方になりますが、それに背けば敵になります。

聖なる戦いに臨む

 主の軍の将軍は、ヨシュアに「履物を脱ぐ」よう命じました。かつてモーセが神の山ホレブで燃える芝の中から主の声を聞いた時も同じように命じられました。そこは聖なる地であって、人が足で踏み込んで自分のものにすることのできない場所でした。エリコもまたヨシュアが神と出会う聖なる地となります。従って、これから始まるエリコの戦いは、エリコの町を聖なるささげものとして神にささげる儀式となります。

 かつてイスラエルにあって戦われた主の戦いは、主イエス・キリストを信じる人々の間にあって、世に働く悪の諸勢力に立ち向かう霊的な戦いとして行われます。神の勝利はキリストにあって私たちに知らされていますが、私たちの戦いの一つ一つは私たちの信仰次第です。洗礼という新しい契約のしるしがあたえられて、主の過越を祝う主の日の礼拝をささげながら、御言葉に従って、私たちは新しいイスラエルとして教会の戦いを戦います。それは、世界を神のものへと還してゆくための、私たちの働きを通してなされるささげものです。信仰の戦いは、私たちの日常生活の中にあります。神の下にいないために不幸と腐敗にさらされた神の良き被造物を、聖なる神の光の中へ導くこと。私たちの生活のあらゆる側面で聖化の働きが行われます。キリストにあって召された新しい世代の民として、与えられた信仰を大切にしながら、聖霊が導いてくださる聖化の働きに、私たちも召されてまいりたいと思います。

祈り

天の父なる御神、私たちの暮らすこの世界も、あなたの約束と、人の欲望に働くサタンの勢力との間で戦われる戦場となっていますけれども、もとより、この世界はすべて聖なるあなたのものです。それを、創造の祝福へと取り返してゆかれるあなたの御業に、どうか私たちが信仰の献身によって、それぞれが遣わされた生活の領域で、携わることができますように、常に聖霊によって私たちを導き、励ましてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。