ヨシュア記6章1〜27節「エリコの戦い」

 

エリコにくだる天罰

 「ジェリコの戦い」という黒人霊歌にも歌われたヨシュア記きっての有名な出来事がここに記されています。死海のほとりに位置するエリコという町は人類史に残るような古い都市として知られています。考古学的な発掘調査が進んだ今日では、エリコの町が歩んだ歴史もおおよそ明らかにされていますが、必ずしも聖書が記す通りの証拠が見つかっているわけではありません。ここに記された「エリコの戦い」は、モーセによる葦の海横断やヨルダン川渡渉の出来事と並んで独特な記述となっています。都市を攻略する戦争の話でありながら、兵士たちが血を流して戦う激しい場面は殆ど見られません。エリコの住民はすでに戦いの気力を挫かれて「城門を固く閉ざして」います。古代の戦闘方法によれば、城壁を突破して内部に侵入するための何らかの攻城作戦が取られる筈です。その観点からすれば、ここでイスラエルが取った方法は都を取り囲んで兵糧攻めにする作戦に似ています。しかし、主によって命じられた戦い方は、そうした通常の戦い方とは全く違っています。ここに描かれているのは祭司たちを中心とする宗教儀式です。エリコの戦いは、武力による戦争というよりも、祭司たちによる礼拝行為として丁寧に記されています。

 戦いは主の命令によって始められます。まず、主はヨシュアに指示を与え、ヨシュアは主の言葉をイスラエルの民に伝えます。最初の言葉で、この戦いはエリコに対する主の裁きであることが告げられます。

  見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。(2節)

従って、これから起こる出来事は、戦の勝敗を巡って力と力が衝突する勇猛果敢な兵士たちのドラマとはなりません。それは創世記19章に記されたソドムとゴモラに下った災厄のような破滅をもたらす天罰です。エリコが犯した罪について物語は関心を払っていません。イスラエルに与えられるカナンの土地は、偶像崇拝に汚れた滅ぼされるべき土地であることはモーセがすでに告げていました。ヨシュアとイスラエルの民は、その神の言葉によって送り込まれた神の裁き手としてエリコに対するすべてを行います。

終末の響き

 エリコ攻略に当たって取るべき行動は、およそ次の通りです。まず、雄羊の角笛を携えた7人の祭司たちが立ち並び、その後に祭司たちに担がれた契約の箱が続きます。つまり、この戦いの中心にいるのは主の言葉とそれに仕える祭司たちです。その前後を武装した兵士たちが囲んで隊列を作ります。6章の記述にはイスラエルの兵士たちの数さえ記されていませんから、戦闘のリアリティは全くと言っていいほど払拭されています。隊列は一日に一度、城壁の外を周回します。行進する間、7人の祭司たちが角笛を吹き鳴らします。民はその間、口をつぐんで沈黙を守らねばなりません。6日間は同じ行動の繰り返しです。そして、7日目には城壁を7周し、最後に民が沈黙を破って一斉に鬨の声を上げます。それで城壁の攻略は終了です。城壁は鳴り響く角笛と神の民による歓声によって完全に崩れ落ちました。

 「7」という数字が鍵になっていますが、それが完全数であることの他は確かなことも言えません。ただ、祭司との関連で言えば、レビ記4章に記された贖罪の儀式の中で祭司が祭司が犠牲となる牛の血に指を浸して、なる垂れ幕の前で7度血を振りまくという清めを表わす行為があります。あるいは、7人の祭司による7日間に亘る7度の周回は、そこで行われる清めの儀式の完全さを表わすものかも知れません。また、7日目は、創造者なる神が大いなる創造の業を完了されて、地上に祝福をもたらした安息の日、祝祭の日です。地上の悪が滅ぼされる日、という意味にもなります。

 この7日間、民には沈黙が命じられて、角笛の音だけが都に鳴り響きました。角笛は戦闘時における合図に用いられましたが、シナイ山で神がモーセに現れたときも角笛の音が鋭く鳴り響いていました。また、祭司たちの吹き鳴らす雄羊の角笛は贖罪日の到来を民に告げるものでした。レビ記25章8節以下には次のような指示が与えられています。

 あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。(8−10節)

「雄羊の角笛」が出てくるのは、ヨシュア記を除いてはここだけです。また、「雄羊の角笛」を元のまま訳せば「ヨベルの角笛」です。エリコの攻略に際して祭司たちに命じられた行動は、おそらく、イスラエルをカナンの住民から解放して土地に帰らせる、ヨベルの到来を告げるものです。最後に民が一斉に「鬨の声」を上げますが、戦争の文脈でいえば確かに「鬨の声」とも訳せますが、元の語は詩編でよく用いられる「歓喜の声」です。たとえば詩編47編6節、

  神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。

あるいは、エズラ記3章11節以下に次のような記述があります。

 主の神殿の基礎が据えられたので、民も皆、主を賛美し大きな叫び声をあげた。昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた。人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった。民の叫び声は非常に大きく、遠くまで響いたからである。

神が都において成し遂げられた大いなる御業に感激して叫ぶ大歓声が、エリコの城壁にこだまして、イスラエルへの約束の成就を阻む障害が粉砕されたのでした。

 祭司たちの吹き鳴らすヨベルの角笛にも、イスラエルの民の大歓声にも、創造主なる神の力が顕われる終末の響きが聞き取られます。預言者ゼファニアは来るべき主の日について次のような預言を語っています。

 主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。その日は憤りの日/苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日/闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。城壁に囲まれた町、城壁の角の高い塔に向かい/角笛が鳴り、鬨の声があがる日である。(14—16節)

ヘレムの掟

 目の前で崩れ落ちた城壁を越えてイスラエル軍は難なくエリコの内部に軍を進め、その中にあるすべてのものを滅ぼし尽くしました。21節に、「男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」とある通りです。この「滅ぼし尽くせ」との命令は、ヨシュアが民に命じたものですが、そもそもこれは申命記でモーセが命じた掟です。申命記13章16節以下で、「その町の住民を剣にかけて殺し、町もそこにあるすべてのものも滅ぼし尽くし、家畜も剣にかけねばならない。分捕り品をすべて広場の中央に集め、分捕り品もろとも町全体を焼き払い、あなたの神、主に対する完全に燃やし尽くす献げ物としなければならない。その町はとこしえに廃虚の丘となって、再び建てられることはない」と言われています。ヨシュアはこのモーセの戒めに忠実に従って、聖書が命じる通りに行ったわけです。

 この「滅ぼし尽くす」行為は、現代の私たちからすれば残酷極まりない犯罪に見えます。ここでヨシュアの罪について、ひいてはそれを命じたモーセ、あるいはさらに遡って神の残酷さについて論じる前に、私たちはまず、この古代の記事についてよく理解しておきたいと思います。18節に「滅ぼし尽くすべきもの」と訳されている語は、原語で「ヘレム」と言います。新改訳聖書ではこれに「聖絶」という造語をあてて、これが今ではよく用いられるようにもなりました。これはまた動詞としても用いられまして、17節では「滅ぼし尽くしてささげる」と訳出されています。

 この「ヘレム」という言葉は、聖書以外の古代の碑文の中にも現れます。イスラエル王国時代に建造されたモアブ王国の碑文の中に「モアブはイスラエルをヘレムした」などという記述が見出されます。つまり、古代の人々は神の戦いとして戦争を行うことがあって、敵を滅ぼしてその町もろとも完全に焼き尽くして神にささげる、というようなことをしました。先に引用した申命記の記述でも、「完全に焼き尽くすささげものとせよ」と命じられています。「滅ぼし尽くす」のは、「焼き尽くすささげもの」として神にささげる宗教的行為であったわけです。このヘレム、もしくは聖絶が、そういう古代人の信仰に基づくものであったことは弁えておきたいと思います。つまり、略奪のための虐殺であったり、民族的な怨恨に基づく戦争だとは一概に言えません。

 また、エリコではヨシュアによってヘレムが実行されたと記されていますけれども、実際に聖絶を実行するのは至難の業です。モアブ王が刻ませた碑文にしても実際にはイスラエルを聖絶してはいません。それは王の業績を通してモアブの神を称えるために碑文に刻ませた文言です。今私たちが学んでいる『ヨシュア記』にしても、ことエリコや続くアイの町では聖絶が行われていますが、実際にはモーセの命令に従ってカナンの住民を完全に滅ぼし尽くすことはできなかった、ということが後ほど記されてきます。それはヨシュアの失態のようですけれども、『ヨシュア記』はその辺りが両義的なのでして、ヨシュアはモーセの命令を完遂するために任命された僕として称賛される一方で、カナンの民を追い出すことが出来なかったという禍根についても同時に記しています。これは通常、『ヨシュア記』の矛盾と受け取られていますが、おそらく矛盾ではなくして、この御言葉を受け取った人々の戸惑いがそのような形であらわれている。もしくは、その相反する事柄の内に現れる神の御旨を見て取っている。

 偶像崇拝を徹底的に排除することが申命記の目的であり、そこに神の民の選びと神の義とがかかっているのは間違いありません。そこに正しい神の御旨が表わされています。だから、カナンに住む7つの民は滅ぼされねばならないのが、神の正しい裁きです。ですが、実際には滅ぼすことができなかった。むしろ、イスラエルは彼らを内に抱え込みつつダビデによる支配の下でカナン統一を果たします。イスラエルはどこまでもモーセの律法に忠実であらねばならない。しかし、それに完全に服従することができない。そこにイスラエルの躓きがあり、裁きがある。しかし、そうしたイスラエルの罪と裁きを通して、神の御旨が世に表わされて行くのが旧約の歴史だと言えます。ですから、聖絶の命令は、一方では神の義がそこで表示されている。神の目の前にある悪は完全に滅ぼし尽くされなければならない。しかし、それが貫徹されねばならないとしたら、地上に人類は生き残ることはできないことになってしまいます。何故なら、この後、王国時代に至って、選びの民であるイスラエル自身が神による聖絶を被ることになるからです。エリコはここで城壁に囲まれた町として描かれています。そして、周囲を強力な軍隊に取り囲まれて陥落する経緯が記されます。それは、バビロニアの軍隊に包囲されて滅ぼされたエルサレムの姿にも重なります。そして、エルサレムの住人は「男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くされ」て都には火が放たれました。

 このエリコの戦いの記述を読んで気がつくことは、これがすぐれて理念的に描かれていることです。滅ぼされる住民に同情するような仕方で戦争のリアリティをここに盛り込んではいません。むしろ、ここに描かれているのは、イスラエルの礼拝の実践であって、その意味ではこの戦いは霊的な戦いとして記されているものです。しかし、歴史として書かれていますから、その現実に即した倫理的な問題は残ります。それについては、この後の長い歴史記述に盛り込まれて、論じられることになります。

ラハブの救済

 22節から25節にかけて加えられているラハブとその家族の救出は、2章に記されたことを受けてのことです。ラハブはイスラエルの斥候二人を匿って命を救った功績でエリコの滅びを免れます。これは後々イスラエルの間で記念されて、マタイが記すメシアの系図にもその名が残されることになります。そうした後の評価はともかく、ここの記述では先の聖絶についての問題と同じ二つの側面があると思います。ラハブが救われたのは、一つにはイスラエルに味方したからです。アブラハムへの約束という脈絡からすれば、「あなたを祝福するものを私は祝福する」のですから、イスラエルの味方は神の味方です。しかし、ラハブがエリコから引き出されたのにはもう一つの面もあると思います。それは、遊女である彼女は聖なるささげものには不適切であるからです。23節には、ラハブとその家族が町から「連れ出されて」イスラエルの宿営の「そばに避難させた」とありますが、「連れ出す」とは「引っぱり出す」という強引な響きがありますし、「そばに避難させた」は原文では「外に置いた」という表現です。中には入れなかったわけです。そして、25節で彼女とその一族が「イスラエルの中に住んで今日に至っている」と言われますが、この言い方は後で、滅ぼされないで残ったカナンの住民がいることを示す言い方として、ヨシュア記後半で用いられる定型句です。ここで描かれるヨシュアとその民の完全さに対して、遊女ラハブの姿は未だ曖昧です。

絶滅からの救い

 今日の私たちがこの「エリコの戦い」から聞き取るべきは、まず、神の裁きによって滅ぼし尽くす定めにある罪の世界についてです。神に敵対する勢力は、真の神を神としない背きの罪の故に、完全に滅ぼし尽くし、焼き尽くされる定めにあります。その滅びの中で、遊女ラハブのように、心を開いて神を受け入れた者が、罪はありながらもただ約束と憐れみによって命を救われます。ここに、イスラエルの運命が暗示されている、ということができます。イスラエルは本来、神のエスコートとして選ばれあ光栄ある民でした。しかし、神との契約を破って偶像崇拝に走り、その姦淫の罪故に預言者からは「遊女」と呼ばれました。ラハブはですから、将来のイスラエルの姿を表わしています。そして、それは、罪の故に神に従いえないと自覚する罪人の姿です。そこに真実に自分の姿を見る者は、神の裁きを免れて命を得ます。「エリコの戦い」はそのような意味で、イスラエルの歴史の縮図であり、キリストによる福音の到来を指し示す出来事です。

祈り

真の裁き主なる御神、あなたの御前にあって私たちは滅ぼされる他はない身でありましたけれども、あなたはその裁きを御子にくだされて、罪深い私たちを生かしてくださいました。その憐れみに生かされた今、私たちは御子イエスと共に罪と戦うように召されています。私たちが永遠の都にたどり着くために、主イエスがあなたの御言葉となって先頭に立ってくださいます。私たちが勇気をもってその後に従うことができますように、霊の励ましをお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。