ヨシュア記14章1ー15節「カレブの嗣業」

 

神の御旨が現れるために

 この14章からヨルダン川西岸での嗣業の分配が始まります。土地の分配に際して責任を持つのは祭司エルアザルとヨシュア、そして「イスラエルの人々の諸部族の家長」です。エルアザルの名はヨシュア記ではここで初めて登場します。アロンの息子であり、アロンがモーセと組んでイスラエルを荒れ野で導いたように、エルアザルはヨシュアと共に働いてカナンに渡った最初の世代を導きます。イスラエルにはダビデのようなメシアが一人で民を導くという救済者の像が与えられますけれども、神をただ一人の王として仰ぐイスラエルの原点に立って言えば、祭司と指導者が互いに権限を分かち合いながら、御言葉に従って民を導くのが相応しい国のあり方です。民数記34章16節で、モーセはこの二人に土地を分け与えるための権限を与えましたから、その命令に従って二人が民の前に立ちます。

 また、二人だけではなく、そこには「イスラエルの人々の諸部族の家長」たちが集います。彼らはイスラエル各部族から選ばれた12人の代表者たちです。民数記の冒頭でイスラエルの人口調査がなされるに当たって彼らはモーセとアロンの手助けをするために選出され、戦の際には各部隊の長として先頭に立ちました。これらの指導者たちの間で、モーセが命じた通りの仕方で嗣業の土地がイスラエルの民に公平に分配されます。分配の指示については民数記26章52節以下で次のように指示されていますので見ておきたいと思います。

 主はモーセに仰せになった。これらの人々にその名の数に従って、嗣業の土地を分配しなさい。人数の多い部族には多くの、少ない部族には少しの嗣業の土地を与えなさい。嗣業の土地はそれぞれ、登録された者に応じて与えられねばならない。ただし、土地はくじによって分配され、父祖以来の諸部族の名に従って継がれねばならない。嗣業の土地は、人数の多い部族と少ない部族の間で、くじの定めるところに従って分配されねばならない。

くじによって分配を決める、というのは神の御旨を問うためです。力の強い者が一番良い土地を求める、というような人間の欲に基づく決定にならないように、神の御手から受け取ってこそ「嗣業」なのですからそれに相応しくということです。どのようなくじ引きの仕方であったかはこれ以上書かれていませんから分かりませんけれども、祭司の胸当てには「ウリムとトンミム」と呼ばれる石が入っていましたから、エルアザルがそれを用いたのかと思われます。くじ引きですと数の多い部族が小さな割当を引いてしまうようなこともあるのではないかと心配ですが、それは前もってそういうことがないように工夫することも求められています。そこで、一番くじを引いたのはユダの部族となりまして、最初に割当について記されるのはユダ族の領土です。

ユダの優位

 ユダへの分配についての詳細はこの後の15章に記されます。12部族の中でユダが先頭に立つ理由は、イスラエルの救いの歴史にあってユダの部族には特別な恵みが示されるからです。後にユダ族の中からダビデ王が現れます。イスラエル国を統一して主なる神のもとへ導いたメシアです。そのダビデに対して、神は永遠の王座を約束されます。やがて国は次つぎと興って来る東方の帝国によって滅ぼされてしまうのですけれども、ダビデの王座に対する約束はそのまま保持されて、イスラエルが約束の地に回復する際の希望となります。その時には国の滅びを生き延びたユダ族がイスラエルの中心になります。神はイスラエル12部族にあってユダを特別に選んでおられたのでした。それで、土地の分配に当たってもユダが最初になり、他の部族に優って詳しくその領域についても述べられます。

カレブの嗣業

 それに先立って、6節以下でエフネの子カレブの嗣業について述べられます。「そのころ」とありますけれども、これがどの頃のことか文脈からは定かでありません。ヨシュアとエルアザルと長たちによる分配は、シロの聖所で行われたと、分配が終了する19章の終わりに書いてあります。ですから、ユダの人々がギルガルにいるヨシュアのもとにやってきて談判したというのは、別の機会に違いありません。

 嗣業の土地は、一旦征服が完了して、それから公平に分配されるという順序で語られる物語の筋と、それぞれの部族が割り当てられた土地を長い時間をかけて勝ち取って行くという筋が入り組んでいますので、ここのところは精確に読み取るのが困難です。カレブへの嗣業の分配は、ユダ族への分配の一部として加えられていますが、土地を獲得する出来事については、ヘブロン攻略の時点に遡っています。

 ヘブロン攻略については、既に10章で書かれていました。後にユダ族の領地となるカナン南部の土地に属する王たちに対して、ヨシュアが戦いを挑んだという記事です。そこにはエルサレムを中心とする五つの町の王たちが名を連ねていますが、そこにヘブロンの王の名も現れます。五人の王たちはヨシュアに捕らえられて処刑され、その町々も次々にイスラエルの手に落ちました。10章36節以下にはこう報告されています。

 ヨシュアは更に、全イスラエルを率いてエグロンからヘブロンへ上り、これと戦って、占領し、剣をもって王と町全体を撃ち、全住民を一人も残さず、エグロンと全く同じようにした。彼はその町とその全住民を滅ぼし尽くした。(36、37節)

こうして、ヘブロンはヨシュアの手によって聖絶されていますから、もはやカレブの出番は無い筈ですけれども、カレブに関する記事は「ヨシュアによる聖絶」とは別のヘブロン攻略についての伝承を伝えています。

 これは既にお話しした事ですが、ヨシュアの聖絶による土地征服の完了は、モーセの律法に従い通した理想的な指導者によって神の約束が果たされたとの終末論的なメッセージとして語られています。それと並行した形でイスラエル諸部族によるカナンへの侵入が、歴史的な現実として語られています。所々でそれらが齟齬を起こすのは、そうした並行的な記述のせいです。

 ここの6節以下に記されたカレブによるヘブロンの征服は、この後15章で、また士師記の1章でも繰り返して報告されます。ここからしますと、ヘブロンを征服したのはカレブ人の功績で、エフネの子カレブはその創始者ということになります。

 ヘブロンはかつて「キルヤト・アルバ」、すなわち「アルバの町」という名であったと言いますが、後にこの地域がイスラエルの支配を離れてエドム人の手に渡った時に、再びその名で呼ばれています。そういう関連で見てまいりますと「ケナズ人」とは「エドム人」であって、カレブは初めからユダの部族に属していたのではなく、ユダ族と盟約を結んで同化していたエドムの一氏族であったとも見なされます。そもそも「ケナズ人」とは、創世記15章で神がアブラハムに土地を与えるとの約束を交わされる時に、カナンの先住民族として挙げられている名でした。そうした出自を遡れば、イスラエルは純潔民族ではないわけです。

 ヘブロンについては民数記13章22節に詳しい説明がなされていて、「そこには、アナク人の子孫であるアヒマンとシェシャイとタルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンよりも七年前に建てられた町である」と言われます。カレブはこのアナク人を追い出して自らの町とし、ユダの嗣業に加えたのでした。ヘブロンはやがてダビデの町となり、その町でダビデはユダの王に即位して7年6ヶ月の間統治します。ヘブロンはユダの所領にあって重要な拠点となる町でした。

信仰による相続

 カレブがこの嗣業を手にするに当たってなした主張は次のようなことです。まず、カレブに嗣業が与えられるのは、モーセを通して与えられた主の約束です。これは、民数記14章24節および申命記1章36節で確認出来ます。申命記の方をお読みしましょう。

 ただし、エフネの子カレブは例外である。彼だけはそれを見るであろう。わたしは、彼が足を踏み入れた土地を彼に与え、その子孫のものとする。彼は主に従いとおしたからである。

ここにも記されていますように、カレブが主張する二つ目の点は、彼が「主に従いとおした」ことです。モーセに率いられて荒れ野を旅した第一世代は、カナンに偵察に出かけて行って、敵の強大さに恐れをなしたが故にヨルダン川を渡ることができませんでした。しかし、その偵察隊の中にいて、神を信じて進軍を主張したヨシュアとカレブは、ただ二人生き延びて、約束の地に入ることが出来ました。いつもはヨシュアの陰に隠れて名前が知られていませんけれども、カレブもまた主に従いとおした真のイスラエルでした。民数記14章24節では、「わたしの僕」と言われていて、カレブはモーセやヨシュアと並ぶ主の僕として称賛されています。

 カレブのもう一つの主張は、彼の健全さです。神が約束の土地で命を長らえさせてくださった恵みは、ただ、生き延びたのではなくて、霊も体も衰えなかったところに現れます。主の僕であったモーセが120歳になるまで「目もかすまず、活力もうせてはいなかった」のと同じように、85歳になったカレブは「今もなお健やか」で、「モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります」と言っています。確かに、モーセの斥候としてカナンに出かけた際に彼が見たものは、巨人の末裔と言われるアナク人の町々であり、強固な城壁に囲まれた要塞でしたが、彼は怯まずに戦いに出ることを主張しました。それは、彼の信仰によるもので、45年前のあの頃と変わりなく、カレブは尚も「主が共におられる」ことを信じて、嗣業を勝ち取る意欲に満ちていました。

 こうして、ヘブロンの町はカレブの嗣業となりました。それは、彼の信仰に対する神の報いです。イスラエルの嗣業は、長い歴史を通じて血統に基づく相続にもなって行きます。しかし、カレブの事例が語っているのは、神の嗣業は単なる家系の存続のためではなく、自動的に親から子へと相続される財産ではありません。むしろ、カレブのような元は異邦人であったものが、神の約束に対するまっすぐな信仰によって主の僕となり、強大な敵を倒して嗣業を勝ち取ります。嗣業の土地と共に、イスラエルの民に受け継がれるのはこの信仰であって、そこには血筋を異にする雑多な者たちが、その信仰の故に神の民に加えられて、神からの嗣業を受け取ります。

 「カレブ」という名の意味は、「犬」です。聖書の中でも犬は死肉を喰らい、残飯をあさる貶められた動物です。ユダの正統な血筋からすれば、カレブはまさにその名が暗に示すような傍流に過ぎなかったのかも知れません。新約聖書ではイエスもまた「神聖なものを犬に与えてはいけない」と言われました(マタイ7章6節)。けれども、娘の救済のためにイエスのもとへやってきたカナンの女性が「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と必死に食い下がった時、イエスは彼女の信仰を称賛なさって、願いを叶えてくださいました(マタイ15章27節)。

 嗣業とは、神から子に与えられる、救いの賜物です。それを受け取るのは、神の約束を信じてどこまでも従ってくる者たちです。信仰者の血筋が、神の国を受け継ぐのではなく、受け継がれた信仰が、嗣業を受け継ぐ資格をすべてのものに与えます。神の御前にあって、私たちは自分の罪のために貧しい小犬でしかありませんけれども、神は御子を信じて従う私たちに、救いの恵みを惜しまれません。必ずやそれは、私たちの人生の終わりに分け与えられます。死んだ後の祝福ならばいらない、などと考える人もあるかも知れません。しかし、カレブの事例が記すように、安住の地を目指す力もまた神の祝福として与えられます。天国の報いばかりではなく、この世で生きる力もその希望に支えられて与えられます。御言葉を信じて、日々生きる力をも受け取りたいと願います。

祈り

 

天の父なる御神、イエス・キリストを信じて従う私たちに、天の御国が分前として備えられていることを今一度、確かに心に留める事ができますように。そうしたあなたの善き御旨を信じて、今御前から遣わされている現場で、力一杯の働きをすることができますように、キリストへの信仰にあって私たちを支えてください。聖霊の恵みを覚える今日、どうか、聖霊を送ってくださって、私たちの内に留まらせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。