コリントの信徒への手紙一1章1—19節

神の恵みに立つ教会

 

 パウロの書簡は教会を建て上げる神の主権的なお働きを私たちに告げています。ここで語っているのはパウロという人間ですけれども、パウロが語った言葉によって真の教会を形づくろうとしておられるのは、聖霊によってその言葉を聖別された天の神です。神の御言葉として、パウロの語るところに耳を傾けて、私たちも教会設立に向けて整えられたいと願います。

 

 今日、読まれました処は手紙の冒頭に置かれた挨拶の部分です。書式が凡そ定まっていますから、他の書簡と多くの部分が共通していますが、これはその後に展開する具体的な内容の序論に当たるもので、すべての勧めの前提になる、信仰に基づく共通理解と言ってよいものです。パウロにはコリント教会に話したいことがあります。ですが、その前に、互いに確認しておかねばならないことがある。その上で、多少厳しい叱責になるかも知れないが心して聞いて欲しい、というところです。

 

 先にパウロとコリントの関係についておさらいしておきますと、使徒言行録の18章でコリントでのパウロの働きが報告されています。パウロはそこでアキラとプリスキラ、そしてシラスやテモテという同労者と共に宣教の働きに専念しまして、16カ月の間そこに留まった、とあります(11節)。「兄弟ソステネ」の名もそこに登場しまして、パウロを法廷に訴え損ねた群衆が、怒りの矛先をユダヤ人の会堂長であったソステネの方へ変えまして、彼をリンチにした、などと記してあります。果たしてコリント書に記された人物と同一かどうかが、議論されていますが、別人と看做す必要も無いように思います。コリントの教会はこうしてパウロが念入りに御言葉を語って育てた群れであって、牧会者としての責任もずっと保ち続けていたのでしょう。この手紙が書かれたのは教会が出来てから5年後と言われます。コリントという海の男たちの溜まり場ともなった異教文化の根強い港町で、教会が健全な信仰と生活を保ってゆくのは困難でした。手紙の11節をみますと、クロエ一家がパウロにコリント教会の問題を告げたとあります。分派や、風俗の乱れ、霊的混乱がキリストの体である教会の交わりを引き裂いていました。都会であって教養人たちも多かったせいか、パウロは情理を尽くして福音を語り、一致の回復をこの手紙で試みています。

 

 その足掛かりとなるのが、この冒頭で述べられている挨拶に盛り込まれている内容です。ここで確認されているのは、今この手紙で語っているのは誰か、そして、これを受け取るあなたがたは誰か、という、教会の根幹に関わることです。そこが、いつでも議論の出発点になります。

 

 まず、送り手はパウロに違いありませんが、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となった」と丁寧な自己紹介がなされています。パウロは、他の使徒たちとは違って、特別な形で召し上げられた使徒でした。ダマスコ途上で生けるキリストに出会って、異邦人に福音を伝えるためにキリストの権限が与えられました。コリントへ彼がやって来たのも神の御心であり、キリストの使徒としての彼の使命の故でした。今、手紙を書いて送るのも、その召しに従って、キリストの内に示された神の御旨を教会に伝えるために他なりません。ですから、パウロの言葉はキリストの言葉として聞かれなくてはならないものです。

 

 他方、受け手は「コリントにある神の教会」です。「神の」という表記は特別です。そもそも「教会」とは「召集された集会」を指す「エクレシア」という言葉ですが、そこに「神の」という修辞が付きます。つまり、神が召し集められた人々だということです。このところは大変入念な呼びかけがなされます。「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」「召されて聖なる者とされた人々」とたたみかけるようなこれらの呼称はすべて教会のことを指しています。神殿のような建物でもなく、犠牲を捧げるための制度でもなく、教会とは人々の交わりであるということ。そして、イエス・キリストの贖いによって聖別された交わりであるということ。パウロのように、神がキリストの交わりへと人々を召してくださったのだということ。そういう「神の教会」が、コリントという世俗都市の真ん中に形づくられたのは、神の永遠の御計画に基づくものでした。

 

 この後、すぐにコリント教会の問題が取り上げられますが、そこでは例えば分派の問題が起こっていました。「わたしはパウロにつく」だとか「アポロに」「ケファ(ペトロ)に」だとか、誰を教会の指導者に押し立てるかで教会内に争いが生じてしまった。実にありがちなこの世の共同体社会の様子ですけれども、「イエス・キリストが私たちの主である」ことをパウロは初めに宣言しています。使徒である自分も神の召しによる。教会もまた召されて聖別された人の群れである。頭はただ一人、イエス・キリストである、という大原則にまず立ち戻ることから、教会のあらゆる問題が対処されます。

 

 教会の広がりにも注意しておきたいと思います。使徒信条にも挙げられるところの「聖なる公同の教会」についてです。パウロはコリントの教会に呼びかけながら、教会全体を視野に捉えてものをいっています。「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めている全ての人々と共に」。主イエス・キリストの名は、地上に建てられたすべての教会を一つに束ねる結び目です。自分の教会の内部だけに視野が狭められる時、その内部での一致も危うくなるということでしょうか。

 

カトリック教会が教会の公同性を制度において確保しようとするのに対して、プロテスタント諸教派は一見分派主義をとっています。けれども、本来の私たちの理解では、プロテスタント諸教派は互いに「カルヴァンにつく」「ルターにつく」「いや私はウェスレーだ」などといって争いをしているのではなく、それぞれに地域的・伝統的な相違を認めながらも、多様でありながらも一致を目指す公同の教会です。

 

3節におかれた祝福の言葉も挨拶の書式に則って記されてはいますが、人の交わりの上に望まれる真の恵みと平和は、神が召しておられる公同の教会の上に実りを見ます。それが、神の教会の出発点であり、最終的に目指す希望です。

 

4節から8節は本来一つの文で成り立っていて、感謝が述べられています。パウロはこの手紙でコリント教会の誤りを正したい。ならば、問題点を指摘する処から始まってもよいはずですが、神の恵みに対する感謝が先に述べられます。これも、パウロの手紙に共通する書式なのですが、意味は深長です。つまり、教会とは、そもそも恵みによって成り立っているものだ、ということがここに含意されています。

 

今、現実に直面している問題からすれば、人間の罪が前面に表れていて、神の裁きが告げられてしかるべきと考えるかも知れません。旧約の預言者たちが神に召された民であるイスラエルに語った言葉はそのようでした。しかし、キリストの教会に対して使徒パウロが語る言葉は違っています。まず、恵みが語られます。その恵みに対する感謝が述べられます。

 

4節で言われているコリント教会が受けた恵みとは、イエス・キリストのみから受けたものですが、5節ではそれが「言葉」と「知識」の賜物だと言われます。「言葉」と「知識」は互いに別物ではなく、すべての知識は言葉によって媒介されますから、それらは互いに相補って「知性」や「教養」を表します。それが、キリスト証言をより確かなものにしたと言われていますので、世の知識人が教会に沢山いるというようなことではないでしょう。むしろ、豊かな知識に基づく言葉の運用能力が霊的に祝福されて、異言や預言、教えや祈りがコリント教会では盛んだったようです。実際はそれらが分派の危険を生じさせ、知識に慢心して兄弟姉妹を見下したり、自己改革を怠るなどの問題を引き起こしていたのですが、パウロはまず、そこにある恵みに目を留めます。

 

コリント教会の信仰生活がどれ程乱れていたとは言え、パウロが種を蒔き育てたそこには、キリストについての証、すなわち、十字架による罪の赦しと復活を告げる福音が確かに根付いており、賜物には何一つ欠けるところがなく、キリストの再臨を待ち望む希望がある。その恵みに留まっていれば、主が来られる終わりの日まで信仰が支えられて、終わりの完成に至ることができる。その約束は、教会から取り去られていません。人はともするとその恵みを忘れて、自らの知識を誇り、自らの言葉に頼って教会の交わりを分裂させ、やがて来る最後の裁きを忘れて、現在の自分に満足して居直ります。パウロは、教会の基礎をなす、イエス・キリストにある神の恵みに訴えるところから、世の終わりに向けての教会の姿勢を取り戻そうとします。

 

イエス・キリストの恵みによって教会を建てた神は真実である。そして、神は、今、生きておられる私たちの主イエス・キリストとの交わりに、教会を招き入れておられるではないか。そう呼びかけて、問題を多分に抱えた教会を、神の召しに相応しく御言葉で整えようとしています。コリントの教会ばかりではありません。神の教会は神の言葉によって立ち上がります。そのための言葉をパウロが取り次ぎます。具体的に、「ビジネスライク」と思われる程に、教会の問題に立ち入って勧めをします。

 

私たち長野佐久伝道所は神の恵みを受けてこの地に生まれました。更に成長して独立教会となるかどうかもその恵みの中で実現されます。世の終わりに向けての通過点として、その恵みの時を迎えることができれば幸いです。教会が世の終わりまで支えられた教会であるように、私たちの上に注がれた神の主権的な御業を心に留めて、神の召しを確かに、主イエス・キリストとの交わりをここに保ちたいと願います。

 

祈り

私たちを御心によって召して、主イエス・キリストと結んでくださいました父なる御神、教会を通して与えられる全ての恵みに感謝出来るように、私たちの内に聖霊を与えてください。私たちをこれからも御言葉によって整え、主イエスが現れる時を待ち望ませてくださり、その途上で、御言葉の実として教会の独立をも果たさせてください。罪の誘惑に取り囲まれた私たちが、御言葉によって正される時、あなたの恵みを覚えて素直に従う忠実さをお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。