マタイによる福音書6518

祈りについて

 

 キリスト者の信仰は、祈りにおいて最も顕著におもてに表れる、と言われます。学生の頃、一緒に聖書研究会に来ていた友人から、君たちは普段は普通の人と何も変わりがないように見えるけれども、祈りを聞いているとやはり信仰者だなあと思う、と言われたことがありました。少々複雑な思いもしましたが、私どもの祈る姿が周囲に対する良い証の機会になったことは確かなようです。また、これは教会の中ではよく聞かれる証ですけれども、キリスト者である母の祈る姿に支えられて、自分もいつしか洗礼を受けたいと思うようになった、という例もあります。キリスト者の祈りは、信仰そのものといってよいのでしょう。

 けれども、主イエスはそういう祈りについても、弟子たちに注意を促しておられます。今朝聞きました御言葉の置かれた段落は、善い行いについて語られているところです。そこで、施し、慈善の働きに続いて、祈りについて同じ注意が与えられます。それは、節にある通りです。

 

祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。

偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。

はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。

 

人に見てもらおうとして祈る、見せかけの祈りという問題が指摘されています。祈りが信仰の表れと見られることは教会では周知のことですので、それを意識して人に見られるため、聞かれるための祈りをしてしまうということが起こり得ます。さらに、それが大胆にあからさまになりますと、「会堂や大通りの角に立って」ということにもなったのでしょう。これはいつも通りの極端な言い方なのかも知れませんが。しかし、おそらくイエスの周りにいたユダヤ人の中に、そういう見せかけの信心ぶる姿がおそらくあったのだと思います。祈りを重んじる宗教全般にも言えるのではないでしょうか。

 

 「偽善者」とは、もともと役者を意味する言葉だということは先週お話ししました。ある役割を演じるわけです。善い行いをして善人を演じる。長い祈りをして聖人を演じる。そういうことが、人の信心には起こります。主イエスはそこで、「あなたがたは偽善者のようであってはならない」と言っておられます。

 

 偽善は確かに嫌なもので、「見せかけ」は誰でも嫌います。けれども、主イエスがここで仰っておられるのは、嘘が嫌いだというような問題ではなくて、救いに関する問題、神と人との真実な関係に関する問題です。つまり、「見せかけ」の信心には人を救う力がありません。

 

 人が信仰によって救われるのは、神から報いを頂くからです。それが、人からの報いを期待しているうちは適いません。人からではなく、神から報いを得るときに人は本当に救われます。

 

 しかし、人の心は普段から人に向かっていますから、誰であれ人からの評価を受けたいものだと思います。子供たちはそのままだと思いますが、両親や先生に褒められたくていろいろと良いことをしようとしますし、友達に認められたくて仕方がありません。それが大人になってもだいたいそのまま生きる姿勢になっているのではないかと思います。ですから、キリスト教に入信したとしても、そういう身に付いた感覚から、人目を気にしたお祈りなどが出てきてしまいます。

 

 山上の説教での主イエスのお言葉は、弟子たちに向けて語られたからかも知れませんが、だいぶ厳しい言葉です。誤った信仰をそのまま放ってはおかれません。それは、命に関わる重大なことだからでしょう。

 

 節の具体的な勧めは、祈りの本質を述べています。ここでは「あなた」と一人ひとりに呼びかけています。私たちがそれぞれ自分のこととして受け止めるようにとの促しです。

 

  だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。

 

「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」る。つまり人が見ている前でというのとは反対に、独りきりになって祈る。戸を閉めるのですから念入りです。つまり祈りは、神と一対一に向き合うことで成り立ちます。うちには一人きりなれるような場所はないから無理、というようなことではなくて、本質的にこれは心の問題です。礼拝で祈りをささげる時も、ですから同じです。人に願うのではなくて、神を相手に語る。当たり前かも知れませんが、主イエスがあえてそう言うのは、案外、当たり前でなくなってしまうからです。たぶん、信仰生活を続けている方々にはよく分かることではないでしょうか。

 

 そこで、どんな風に祈りに誤りが入ってくるのか。教会でなされる祈りを中心にして、注解者たちが様々な適用をしています。皆およそ言っていることは同じです。

 

 例えば、信仰を見せるための祈りをすることがあります。主イエスが事例を挙げられましたような、人前で見せびらかす程の事はなくとも、自分はちゃんとした信仰者ですということを周囲に知らせようなどと思ってしまうことがある。それは、人に向けて喋っているであって、神の方を向いていないわけですから、本当の意味での祈りにはなりません。特に求道者の方など、慣れていない方は周りにどう聞かれるかというストレスをずいぶん抱えながら、集会での祈りに加わることと思います。それは慣れるまで致し方ないかと思いますが、普段から祈ることを心がけていないと、何年たっても人目を気にした祈りからは逃れられないのも事実です。また、教会生活に慣れて来ますとマンネリズムが生じますから、自分の祈りが神に向かっているか、人に向かっているのか、よく心の中を吟味することが大切になります。

初めに例を挙げましたように、祈りを聞いていれば、その人の信仰が分かる、などと言われますが、必ずしもそうではないと思います。祈りの言葉に慣れることと、心が真実に神のみに向かうということは同じではないからです。本当に心が神に向かっているかどうか、知っているのは自分だけです。

 

そして、説教の要約としての祈り、というのがあります。教会ではよく献金の感謝の祈りをささげるときに、そういう祈りがなされたりもします。これも、よくよく考えてみますと、自分自身や会衆に向けて語りかけられている場合が殆どではないでしょうか。神と一対一に向き合って、説教をまとめて述べなくてもよいはずです。語り方に注意してみますと、確かに、願いや感謝を神に語りかけているのではなくて、物事を叙述する文が主体となります。祈りは対話で、それによって関係が作られるとしますと、相手が聞いていようといまいと一方的に喋るだけでは、対話にはなりません。

 

次に、それとよく似ていますが、これは深刻な問題です。祈りを装った説教。誰かを批判する祈りがあります。一緒に祈りながら、その中で誰かを更生させようと試みるようなことです。これについては注解者がこんな風に述べています。

そういう祈り方は、「あなたは間違っている」と面と向かってその人の言うことを避けるための悪意ある方法である。そうした場合の祈りは、人の間に本来成り立つはずのコミュニケーションを阻害する。祈りを批判の手段にするものは、罪を指摘する自分を相手に晒さなければならない信仰の誠実さを示す機会を失う。これは教会の交わりにおいては特に注意したいところです。牧師の牧会の仕方にも同じような適切な配慮が必要です。

 私の祈りが真実に神に向かうものであるのかどうか。私が祈っているのは、真に生きておられる神なのかどうか。そこに祈りが祈りとして成り立つ鍵があります。これは私たちの信仰の本質に関わることで、私たちは祈ることで、今私と共に生きておられる神を確認するのですから、これは信仰にとって、つまりそれは、私たちの命にとっての死活問題です。

 

 そして、節と節で、また節以降の「主の祈り」を通して、私たちはもう一つ祈りに関する重要なことを知らされています。それは、どのような神に私たちは祈るのか、ということです。具体的な勧めが先にあります。

 

また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。

 

言葉数の多い、饒舌な祈りは必要ありません。この背景には、「異邦人は」とありますように、他の宗教の様々な事例があったことと思います。はっきりは分かりませんが、例えば神に呼びかけるときに、50回も100回も違う仕方で神の名を呼ばわるとか、ぶつぶつと呟くような呪文を述べて神に願いをささげるとか、そういう祈りの形式が、ギリシャでもオリエントでも知られています。これも、本当に神に向かって祈っているのか、と問われそうですが、もとより、神についての知識が違います。

 言葉数がやたらと多いのは、そう呼びかけなければ神が振り向いてくれないからかも知れません。そして、いろいろと述べ立てなくては、神に自分のことを分かってもらえない。つまり、神は私のことをご存じない。

 それから、同じ言葉を繰り返し繰り返し祈ったり、ぶつぶつ延々と呟いたりする祈りは古代世界から現代まで続く呪術・魔術の特徴ですが、これは言葉で神を動かそうとする試みです。つまり、人間が働きかけなければ神は行動しない。或いは、人間が神をコントロールすることができる、ということになる。

 聖書の神はそういう方ではありません。特に、主イエスがここで繰り返し私たちに教えておられるのは、私たちは「父に」祈るということです。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」「あなたの父が報いて下さる」。そして、主の祈りにおいても、始めに、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかける。私たちは、わけのわからない神通力をもった神のようなものに呼びかけるのではなくて、主イエス・キリストが父と呼ぶ、天の神に向かって、主イエスと一緒になって、父に願います。そして、祈りの前提として重要なことが、節の後半に書いてあります。

 

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

 

神に向かって丁寧に私の願いを教えてあげる必要はありません。「わたしたちの父」は、子である私たちのことは何でもご存知です。人間の親でしたらそうはいきませんが、神だから真実にそう述べることができる。父なる神は、私たちが自分のことを知る以上に、私たちの心の底までご存じで、配慮を尽くしておられる。そういう神に向かって、父に向かって、私たちはどう祈るのか。どう語りかけたらよいのか。これが、祈る姿勢の基本となります。

 そこで、一つ問題が起こります。では、何でもご存じの神に向かって、そもそも祈る必要があるのかどうか。神はすべてを始めからご存じで、神が計画されたことだけがこの世においては実現する。すべてのことは神の御旨に従って、私たちの周りに起こってくる。摂理の信仰ですね。そうしますと、祈る必要などもうないのではないか。何もしなくても神が先に行動されているのではないか、という疑問が起こります。

 主イエスは、しかし、祈るなとは言われませんでした。くどい祈りは必要ないと言われましたが、実に簡潔な祈りとして、節から13節にあるような、祈りの手本となる主の祈りをお与えになっています。

 祈りは私たちのために主がくださったものです。私たちは、神の恵みを受け取るために、祈ることができるようにしていただきました。それは、必要があってとか、目的があってではなくて、祈ることとは、神との交わりそのもの、信仰そのもののかたちです。祈る内容は、ウェストミンスター小教理問答が聖書に従って要約するところによれば、罪の告白と感謝と願いになりますが、どれも最も親密な心と心の結びつきの中で、しかも自由な言葉で、父なる神へ語りかけます。

 ですから、祈ることによって、どんな風に私たちが導かれるか分かります。祈ることで私たちは神の近さを知ります。神は既に行動されました。私たちが願う前に、神は既に行動されて、キリストの十字架と復活の御業により、私たちに死の恐怖から解放された新しい命を準備されました。罪から逃れられずにいる私たちが、神と共に生きるための絆を回復されました。神はもう近くにいて下さる。それが、祈りによって確かめられます。祈りは神と心で向き合うことですから。

 私たちは祈ることによって、父である神と毎日を過ごします。誰にも悩みを相談できないで苦しむときに、聞いて下さる方があります。

 私が神学生でした頃、大江健三郎さんの『信仰のないものの祈り』というエッセイが一時期いろいろな先生の説教で取り上げられました。人生の困難に直面して誰もが心に深い祈りを持っている。それは、原罪を深く内に抱えた人間存在の、真に求道的なこの世でのあり様を教えてくれる。大江さんならでは洞察だと思いますが、キリスト者の祈りはもっと具体的です。相手が分からずに祈る求道心ではなくして、主イエスがもっておられた特別な親しさ、完全な信頼、明け渡し、愛をもって、いつも側におられた父へ率直に打ち明け、願いを述べるのがキリスト者の祈りです。その方に話を聞いていただいているという慰めがあります。

また、良いことに生きたい。悪に傷ついて自堕落になっていくのではなくて、誰にも知らされずとも、善いことで誰かの役に立ちたい。神が作られた人間本来の善さを人生の中で味わいたい。そういう思いを率直に父である神に願って、応えを期待することができる。それを、ことさら人に見せるつもりはなくても、祈っている日常を通してそれが証にもなる。そういう様々な恵みが、祈りの実りだといえます。

 報いということが述べられていまして、人からではなく、神から報いを期待するように求められます。けれども、報酬がすべてではなくて、祈ることそのものが報いだといえます。祈ることで結ばれた父である神が私たち祈る者への報いになっている。さらに、終末の報いがある。この世で人から受ける報酬ではなくて、最後の最後に復活の命を頂くという終末の報いが約束されている。信仰そのものである祈りが私たちに生じるときに、私たちは真に救われた者です。それが祈りを通じて分かります。

 主の祈りの内容については今日は触れませんが、教理問答を通じて丁寧に学んで置きたいところです。そして、16節以下には断食に関する教えが加えられています。施し、祈りに続いて、断食が一連の礼拝的な行為に挙げられます。その心は一つ、心の伴わない形式化した礼拝行為には意味がないということ。宗教改革者たちは断食には否定的で、カルヴァンも、断食はあってもなくてもどちらでもよいと述べています。ただ、個人的に祈りの修練の為とか、精神的・肉体的鍛錬には役立つと評価しています。主イエスもここで、断食そのもの否定しているのではなく、見せかけにならないようにと、やはりそれを行う者の信仰を問うておられます。

 キリストが私たちの一人となってくださって可能になった、父と子の関係の中で、私たちは真に赦されて、受け入れられた存在です。祈りの中で、私たちは今生きておられる神に触れて、見せかけではない自由なキリスト者である私として生かされます。活き活きとした祈りの生活が私たちの内に実りますように、聖霊の働きを願いましょう。

 

祈り

 

天の父なる御神、あなたは生きて働いておられるのに、私たちは自分のことばかりをあなたに申し立ててしまいます。それでも、聞いて下さるあなたの慈愛に心から信頼します。主イエスの尊い十字架の御業によって、あなたの子として祈ることが許され、またあなたの赦しを受け取ることのできる特別な恵みを心から感謝します。どうか、偽りを捨て、真の祈りに生きるものとなさせて下さい。本当の祈りの交わりの中で、聖霊なる神の息吹を感じ取らせて下さい。苦しみに遭った時、傷つき、冷え切った私たちの心に、あなたの憐れみを満たしてください。そして、十字架を負って先を行かれた主イエスの後をたどらせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。