マタイによる福音書20章29節-21章11節

ロバに乗つた王

綜欄の主日

 主イエスのエルサレム入城は、教会の暦では「椋欄の主日」として記念されます。私たちは特別なお祝いをするわけではありませんけれども、受難節の初めの日をそのように呼んでいます。「椋欄」とは「ナツメヤシ」のことですから、日本のそれと中東のそれとは少し種類が異なりますが、アラブ世界の映像で目にした方もおありかと思います。ナツメヤシの葉は「勝利」を象徴します。今日の箇所で、主イエスが都に入る道の上に、人々がその枝を置いたとされるところから、「粽欄の主日」もしくは「枝の主日」という呼び方がされるようになりました。それは、聖書の記す所に基づいて、受難の始まりを表します。

 主イエス。キリストの受難は、聖書に記された神の救いの御業のクライマックスです。天から来られた御子のことを思えば、人間となられたこと、貧しい家庭に生まれたこと、旧い信仰を持つ人々から敵視されながらも、世の中で蔑まれた人々の中に居場所を定められたことなど、すべて、主イエスが受け止められた苦難だということができます。そこには、神が御子イエス・キリストにあって、苦しむ人とともに苦しむことを選ばれたことの表示があります。人生の不幸に見舞われた人が、神は自分のことなど全く考えてはいない、と言って、神の存在を否定することがありますけれども、イエス・キリストは、そもそも、そうではないというメッセージとして、神がこの世に送られた方です。神が人を苦しみの中で放っておくのであれば、キリストは世に来られませんでした。

 キリストの受難は、この世界で罪の責め苦を負い、不条理に苛まれる人に、生きる希望を示すために神がお取りになった方法です。人の苦しみはこの世界が罪の裁きに服していることを表しています。たとえ今、平穏無事でいて、仕事も人間関係も申し分ない生活が実現していたとしても、死を宣告されたこの世界からは誰も逃げることができません。すべての人間は最後に自分の罪が神の前で問われます。そして、誰も申し開きはできません。そうした人間の悲惨さを神は冷たい日で眺めておられるのではありません。何が人間の幸せで、どうすれば平和な世界をつくることができるのかは、古くから聖書に記されて人々に知られています。旧約聖書の律法には、「隣人を自分自身のように愛しなさい」とあります。これだけでも人が確かに守ることができたなら、暴力に晒されたどれだけの子どもたちが今の苦しみの中から救われることかと思います。命を脅かすな、不倫をするな、人のものを欲しがるな、と、神は人に命じています。これだけでも本当に人が守ることができたなら、世の中の苦しみの大半は無くなるのではないかと思います。しかし、それができないのが人間の罪深さです。神はそうした人の有様をごらんになって、深く憐れんで、御子キリストをこの世にお遣わしになりました。その御旨を確かに伝えるために、御子イエスは最も弱い人々の一人になって、その苦しみを自ら背負いました。イエス・キリストの苦しみは、神が私たちのこの世界を見捨ててはおられないことの表示です。そして、それはただの同情ではなく、御子イエスについていけば、どんな人の願いにも優る幸福に辿り着く、救いの道の現れです。神は、十字架の死に至る御子イエスの苦しみを、私たちの苦しみと一つにして受け止めてくださいます。イエス・キリストの死は、私たちの罪に対する神の裁きです。それによって、私たちはすでに裁かれたのですから、もう、神の裁きを受けることはありません。罪を赦されて、その負い目に苦しむことなく、神の子として生きる自由が与えられます。そして、そうして神とともに生きる命は永遠です。キリストが復活なさったように、赦された人の人生には罪の裁きとして訪れる死はもはやなく、形ばかりの世の中の幸せとは決定的に違う、幸福な命が最後に待っています。「粽欄の主日」から始まるイエス・キリストの受難は、私たちの幸福のために、神の救いが実現するクライマックスです。その始まりに、神は御子イエスの輝かしい勝利の姿を弟子たちの目に焼き付けました。

憐れみの王

 イエス・キリストがエルサレムで逮捕されて裁判にかけられ、十字架に傑にされる姿は人の日からすれば恥でしかありません。しかし、それは神の救いのご計画にあっては、罪人の赦しを獲得した御子が勝利した姿です。主イエスのエルサレム入城は、神のメシアがいよいよ救いの勝利者として王座に上られる時の晴れがましいパレードとして描かれます。主イエスを囲んで大群衆がこの行進に伴います。

 エリコからエルサレムに上る途中、二人の盲人がイエスに出会いました。彼らは神の都に上っていくそのお方が、神のメシア、真の王であることを証しする二人の証人となります。彼らはイエスの到来を聞きつけて道端から大声で呼ばわります。「主よ、ダビデの子よ、憐れんでください」。「主」という呼び方も、「ダビデの子」も、神がイスラエルに約束された救い主に対する称号です。特に「ダビデの子」は、神が選んだ王を指しています。イエスを取り囲んでいた人々は彼らの声を抑えつけようとします。かつてイエスのもとを訪れた子連れの者たちを弟子たちが追い払おうとしたように、それは通常の大人の振る舞い方です。もしこれがイエスではなくてローマの将軍か誰かでしたら、群衆たちがその二人を叱りつけるのをそのままにして、隊列を崩すことなく威厳を保って、彼らに日もくれずに通り過ぎたことでしょう。けれども、主イエスは違っていました。叫び続ける二人の声を、イエスは確かに聞いておられました。そして、この二人は確かに自分の声が届くと信じたからこそ、叫ぶのを止めなかったのだと思います。イエスは彼らを深く憐れんで、二人が願った通り、彼らの目を開いてくださいました。

 二人の盲人が証しするのは、こうしてイエスが確かに「主、ダビデの子」として讃えられる、イスラエルの王であることです。ただ、イエスは自分の権力を誇るようなこの世の王とは違って、神の憐れみを体現した王でした。癒してもらった二人は、イエスのうちに、真のメシアの力、すなわち、イスラエルの神の力を信じました。

 この二人に対して、イエスは「何をして欲しいのか」と問いました。本当ならば言わずもがなのことだろうと思います。しかし、先には弟子たちの中で、ゼベダイの子らが母親とともにやってきて、自分たちの優先的な栄誉をイエスに求めた、ということがあって、「あなたたちは自分が何を願っているのか分かつていない」と諭されています。二人の盲人が願ったのは神の憐れみでした。「憐れみ」とは単なる同情を越えています。神の憐れみはそれが注がれる結果を伴います。そして、ここに罪人でしかない人間の根源的な求めが示されています。彼らのように人間の闇を知り、神に憐れんでいただくより他に救いが無いことを知る者だけが、イエスを真の王と認めて頼りにすることができます。イエスの内に働く神の深い憐れみに触れた二人は、癒された後、ただちにイエスに従い、勝利の行進に連なる者となりました。

平和の王

 主イエスの受難は、神の憐れみに基づく救いの計画の内にあることでしたが、旧約の預言者たちが予め語っていたことでもありました。ここに「ロバ」が乗り物として登場するのはそのためです。5節に引用されている聖句は、イザヤ書62章11節とゼカリヤ書9章9節を組み合わせたものです。「ロバ」は本来、王の乗りものに相応しい動物ではありません。人が乗ることもありますが、もっぱら荷運びのために用いられます。勝利者である王に相応しい乗り物であれば「馬」でしょう。けれども、馬は権力の象徴でもあり、当時は軍隊には欠かせない兵器でした。先のゼカリヤ書の預言では、続きにこう記されています。

わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。

戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。(ゼカリヤ書9章10節)

 

「軍馬」に比較されるところの「ロバ」は柔和であり、平和の象徴となります。イエスはこの世の権力者たちとは違って軍事力を誇らんとする威圧的な支配者ではなく、柔和であり、つまり、弱さを担った平和の使者として君臨される工です。主イエスは受難のメシアです。人の罪を背負って自らの命を捨てることで世界に平和をもたらします。神の子としてのイエスの支配は、罪の赦しと愛が聖霊によって人に実ることでこの世に実現します。

 イエスの下にロバを引いてくる仕事は二人の弟子に命じられました。それは預言の成就でしたから、このすべてはイエスの言葉どおりに進行します。弟子が二人で一組にされるのは、イエスが取られる通例ですけれども、先の二人の盲人に続いてということで考えれば、この弟子たちもイエスの証人であることを表すのかも知れません。二人はイエスの言葉どおりに事を果たすことができました。二人がイエスの命令を実行したというよりも、イエスにおいて働く神の言葉が二人を用いています。弟子たちの働きは、いつでも神の言葉の主導権のもとに置かれています。

真の王を迎えて

 イエスに従ってエルサレム入城を果たした大勢の群衆は、自分の服や木の枝を道に敷いて、イエスを新しい王として都に迎え入れました。先の盲人たちと同じように、人々はイエスを「ダビデの子」と呼んでほめたたえています。この時、エルサレムの都中が「騒いだ」とあります。町中の人々が一体何事かとどよめいたのはその通りでしょうけれども、この「騒ぎ」は騒音を表すものではなくて「振動」を表す言葉です。原文どおりですと「都中が揺れ動いた」となります。これは、或いは、「新しく生まれた王はどなたですか」と問いながら東方の学者たちが都を訪ねてきたときの動揺にも通ずるかと思います。詩編68編に「地は震え、天は雨を滴らせた/シナイにいます神の御前に/神、イスラエルの神の御前に」と歌われますように、主なる神の顕現に接して大地は戦き震える、または、喜びに満ちて震えます。また、詩編24編10節には、「いったい、これはどういう人だ」と同じ文句があります。文脈にあわせて訳されていますからだいぶ違うように読まれますが、詩編ではその問いに答えて、「万軍の主こそ王」と答えています。福音書はいちいち説明してはいませんが、ここに描き出された場面は、詩編に歌われた真のメシアである王の到来です。

 群衆が叫んだ言葉は詩編118編と148編を組み合わせたものです。「ホサナ」との呼びかけは、元々は「お救いください」との嘆願の言葉ですが、これがヘブライ語またはアラム語のまま礼拝の言葉に定着して、神の救いをたたえる賛美の言葉になっています。このとき、イエスに従った群衆は、かつてモーセに率いられてシナイ山で主の顕現に接する栄光に触れたように、今、神の聖なる都であるエルサレムに導かれて、真の預言者でもあられるメシアを囲む光栄に導かれたのでした。

 この群衆は、しかし、そこにおられるのが十字架のメシアであることをまだ知りません。神が申命記に約束された「モーセのような預言者」だと思っているようです。やがて、イエスが逮捕されて裁判にかけられる間に、彼らは一旦離散してしまいます。けれども、この時、イエスがエルサレムに入城された際に現れた大いなる喜びの瞬間は、夢でも幻でもなく、神がその場にいた従う者たちすべてに示された真実でした。イエスは神の憐れみの体現者であり、平和を実現する王として、ロバに乗ってやってきた神のメシアです。後に教会はこの場面を思い起こして、真の王の到来を「椋欄の主日」で記念します。それは、その特別な記念日だけのことではありません。キリストの教会は、主の日の礼拝をささげる度毎に、そこに聖霊によって臨まれる主の到来を祝います。

 受難の道を通って復活の栄光を勝ち取られた主イエスは、その輝かしい勝利への道へ弟子たちを招きます。主イエスに従う弟子たちは、人生の苦しみと宣教の重荷を、信仰によって耐え忍びながら終わりの栄光を目指します。その歩みを導くのは、ロバに乗った柔和な王です。この王のもとで教会は愛と謙遜をもつて仕えることで、キリストの支配を世に表します。苦難を耐え忍ぶキリスト者の姿は、罪に打ち勝った十字架の王に喜んで従う弟子の姿です。神はキリストを通して私たちを憐れんでくださり、私たちの人生に触れて来られ、死の暗闇から解放してくださいました。主イエス・キリストを私たちの人生の中に入って来られた真の王として受け入れて、聖霊による御支配の下で、いつも心から神への賛美を絶やさずにいたいと願います。

祈り

 天の父なる御神、主イエスが私たちの為に負ってくださった苦しみを心から感謝します。わたしたちの心から奢りを取り去り、あなたの憐れみによって、主イエスを真の王としていただく喜びに与らせてください。世の人々は己の力を誇りとして互いに争い騒ぎ立っておりますけれども、どうか平和の王として世に来られ、聖霊による御支配を行っておられる主が、わたしたち教会を清めて、平和の基としてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。