旧約聖書における伝道

 

旧約聖書に伝道はあるか?

 「旧約聖書における伝道」というのが今日私に与えられた課題です。「伝道」というのを未信者を罪の悔改めに導いて真の神への信仰に回心させること、とすれば、そのような実践の事例や神からの指示が旧約聖書の中にあるかどうか考えてみることが最初の手掛かりになるかと思います。しかしキリスト教会の伝道はイエス・キリストの福音を宣べ伝えることに他なりません。実際、キリスト教宣教がいったいどこから始まったかと考えますときに、通常はマタイ福音書の最後に記された、復活された主イエスの大宣教命令がまずその根拠とされまして、続いてルカ福音書で報告されますペンテコステの出来事、約束された聖霊降臨の出来事が、教会の宣教活動の出発点とされます。そうしますと、旧約時代にキリストの伝道活動を求めるのは時代錯誤になりますし、おそらく予想する結論は、旧約の預言者たちが遠い将来に起こる教会の伝道活動を予告していたであろう、という辺りに落ち着きそうです。そこであえて旧約聖書から伝道についての何らかの手がかりをつかもうと試みるならば、最初に「伝道」の定義そのものを改めて吟味してみることが必要になるかと思います。

 

神の宣教 missio Dei

 伝道がイエスの派遣に基づいており、聖霊のイニシアティブをもって行われる活動だとすれば、伝道は人間の内から生じてきた自発的な行為ではなく、神の意志に基づいた、神の業への人間の参与ということになるかと思います。実際、宣教の神学にあってはそう位置づけられてきたようです。今日の宣教学では、キリスト教会の宣教活動が神の名の下に権威づけられて多くの過ちを犯してきたことへの自己反省から、神の業と教会の業を安易に同一化しないよう十分な注意が払われながら「神の宣教」と言われます。ボッシュの教科書などはその点での立場がはっきりしています。しかし、教会の存在と活動の根拠をあくまで神の啓示である聖書に求める私たちの信仰からすれば、聖書が告げるとおりに伝道は神の御旨から出たものであって、三位一体の神が罪人の救済のために働くときの具体的な方法に違いありません。そこで、伝道活動が実際に開始されるのがペンテコステ以降であるとしても、罪人を救済するという神の意志、つまり伝道の目的と動機については、旧約聖書が十分に語っています。ただ、「罪人の救済」ですとあまりにも大きなテーマで、伝道という主題と結びつけるにはもう少し整理しなければならないと思います。

 

救済史と聖書の普遍主義

 旧約聖書における伝道はないとする立場は、旧約聖書は神の選民であるイスラエル中心に描かれていて、あくまで民族主義の枠内で共同体内部の問題を扱っているのに過ぎないとします。けれども正典としての文脈において、聖書で神が問題にしておられるのは人類全体です。その普遍的な視野の下で、イスラエルの外部に位置する異邦人たちもまた神の憐れみの対象になっているのでして、選びの民はその外的な世界としっかりと関係づけられた上で歴史に存在します。選民はそこで異邦人を真の神に導くための光としての使命を帯びていて、それが後に新約聖書においてイエスの大宣教命令、聖霊降臨による具体的な展開へと繋がっていくのです。旧約正典から与えられる救済史の文脈を私たちが大切にして聖書を読むならば、新約聖書の伝道は旧約聖書から一貫する神の働きの一部なのであって、その神の働きの全体像を明確にするときに、伝道とは何か、というより大きな主題に、聖書からの解答がもたらされます。ここで大枠だけでも明らかにしたいのは、伝道という救済史の最先端で行われる神の働きの、その太い幹の部分、根っこの部分に関する観察の結果です。

 

幾つかの研究

 こういう課題は今日の宣教学では盛んですけれども、伝道や宣教を主題とする聖書研究はそれほど多くありません。近づきやすいところですと、宣教学ではヘルマン・バフィンクが教科書の冒頭で「旧約聖書における諸国民の将来」というある特定の視点から旧約と伝道という問題について触れています。また、聖書神学では、アーネスト・ライトという著名な学者が、「キリスト教宣教の旧約的基礎」という短いのですがよく読まれた論文を記しています。先程も述べましたように、今日ではディビッド・ボッシュのように、伝道の聖書的根拠を求める態度に批判的な意見も幾つかあるのですが、最近より積極的に旧約聖書の宣教的視野の重要性を主張する書物が現れました。ヴァルター・C・カイザーという福音主義の立場の著名な聖書学者が記しました、「旧約聖書における宣教」と題された簡便な書物、と申しますか、少し大きめの論文です。今回は、これを元にカイザーの見解を紹介して、旧約聖書における宣教の視点について考えてみることにしまして、後半は具体的なテキストとして詩編を取り上げたいと思います。

 

1. 旧約聖書の大宣教命令

創世記の文脈から−天地創造からアブラハムの召命まで

 カイザーの目の付け所は、創世記12章3節をとりあげて、これを旧約聖書の大宣教命令とするところにあります。12章1節からお読みします。

 

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

 

ここを理解するには、前からの文脈を丁寧に辿ってくることが大切です。創世記111章は天地創造から始まってバベルの塔に至る記述の中で、人類の普遍史を語ります。神の六日間の創造は、7日目の安息日の祝福の内にひとたび完成しますが、続くエデンの園におけるアダムとエバの堕落によって、神の創造の祝福は堕落した人間及び被造物の救済という形でしか再現されないことになります。園を追放された外で始まった人間の歴史は、神と人とが混合した「名高い英雄たちの時代」に入りますが(6章)、神はノアとその家族を残して、洪水によって堕落した世界を滅ぼします。続くノアから始まる新しい時代は、神が新しい人類と結ばれた虹の契約に支えられて、再び神の祝福を受けたノアの子孫が世界に広がって行くのですが(10章)、この世界に分散していった新しい人類が、堕落以前のアダムとエバのように無垢な人間ではなかったことが、10章の世界民族マップに続く11章のバベルの塔の出来事において語られます。「天まで届く塔のある町を建てて有名になろう」(4節)という言葉には、洪水以前の人類の関心事である「名を上げる」というモチーフが再び現れていまして、これがまた神の懲罰を招く結果となり、人類は言葉を違えて世界に「離散して」住むようになったわけです(9節)。こうして先程お読みしました12章へと文脈は繋がるのですが、その世界の隅々へ分散して行く動きの中からアブラムが選ばれ、神はアブラムを祝福して「名を高める」との約束をされる。そして彼を神の祝福の源として、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と言われる。つまり、人間の自ら名を高める行為は諫められて、神が名を与えた者が祝福を受け、その名を通じて祝福が地上のすべてに及ぶようになる、との救済の計画がここに示されたのです。カイザーはこう纏めます。神は恵みとしてアブラハムに名を与えたのであって、それは自分自身のために名誉を浪費するためではなく、他者の祝福を目的としたものである。即ち、地上のすべての国民がその名によって祝福を受けるためであり、これは旧約聖書における大宣教命令といってよい。アブラムに対する約束は、その後もさらに4箇所において同じように繰り返されますが(18:18, 28:14, 22:18; 26:4)、地上の諸国民すべて祝福をもたらす使命はその子孫へと受け継がれていきます。創世記26章4節では、イサクに対して次のように告げられます。

 

地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。

 

 こうして旧約聖書の初めから物語を辿って行きますときに、聖書は創世記から宣教を主題として掲げ、12章3節にあるアブラハムに対する大宣教命令でその目的を明確にし、神の計画を明示している、といえます。これが、聖書の巻末に置かれたヨハネ黙示録の「あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民」という宣教の射程と呼応して、聖書全体を囲む巨大な枠構造(インクルジオ)をつくることで、旧新両約聖書を一貫する神の宣教の情熱を提示するわけです。

 

選びの歴史と宣教の関係

 さて、ここで神の選びとの関係が問題になってくるのですが、堕落後の人類を神の祝福のもとに呼び返す計画の実現は、神の祝福を前もって経験した者たちの媒介によって果たされて行きます。アブラハムを通しての祝福は、アダムとエバが堕落した後に神から告げられた祝福へと遡ることができます。罪の呪いに対する神の解毒剤として、エバの子孫から男の子が約束されました。これは原福音と呼ばれる創世記3章15節のことです。罪の呪いは人類全体に及びますが、神が約束された解毒剤は最初から広い範囲にばらまかれるわけではありません。ノアの洪水の後、まず、セムに約束として与えられて(創9:12)、そこからアブラハムへと絞られます(創12:1-3)。この筋道はやがて出エジプトによって贖われて、モーセの導きの下、シナイ山で神と契約を結んだ民に至る。主なる神はそこでイスラエルを神に礼拝をささげて、神に奉仕する民として召し出されたのであって、彼らはアブラハムの任務を引き継ぐことになります。すなわち、彼らは地上のすべての民に祝福をもたらす義務と責任を負ったのです。出エジプト記19章3節以下では次のように告げられます。

 

 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。4 あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。5 今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。6 あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」

 

アブラハムの子孫は、ここで「わたしの宝」「祭司の王国」「聖なる国民」と呼ばれます。アロンの一族やレビ人だけが「祭司」と呼ばれるのではなくて、ここではイスラエル全体が祭司職に任命されます。祭司職とは民を代表して神に仕える職務であり、また神の代理を民の間にあって果たします。そしてイスラエル全体が祭司であるならば、彼らが代表するのは世界の諸国民であり、世界の民に神の臨在を証しする務めを負うことになります。これは新約聖書でペトロが手紙で教会の兄弟姉妹に適用して述べているところですし(1ペトロ2:9)、黙示録1章6節にも言及があります。

 

イザヤとパウロ

 選びの民の祭司性というのは、積極的に外へ出て行って神の約束を伝えるという働きとは違うと思います。カイザーはこれを旧約聖書における宣教の「求心的 centripetal」働きと呼びます。自らを周辺から分けて取って、つまり聖別して、自らが神の臨在の証となることで、諸国の民に神を伝える。そこへと民を引き寄せる受動的な働きです。それに対する能動的な働きは「遠心的 centrifugal」と呼ばれていますが、これはきちんと区別して考えるべきであって、宣教の遠心的働きはイザヤ書の使信に現れると言います。例えば、イザヤ書49章6節には、

 

わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 

とありまして、パウロはピシデアのアンテオケで、この御言葉を根拠にユダヤ人から離れて異邦人宣教に出て行く決心をしています(使徒言行録13章46−47節)。また、パウロ自身の主張によれば、異邦人への使徒となるよう彼自身が召されたことは、旧約聖書のイザヤやエレミヤの召命に対応するものでした(ガラテヤ1:15-16, イザヤ49:1, エレミヤ1:5)。また、ローマの信徒への手紙を書き始めるに当たって、彼は「召されて使徒となった」「神が既に聖書の中で預言者を通して約束された、神の福音のために選び出された」と言っています。パウロの使命は、異邦人たちを召し出してイエス・キリストへの信仰に導き、「異邦人全体」(ローマ11:25)がキリストへ集結されるに至ることでした。そして、ローマ書15章16節にある「異邦人の供え物」とはイザヤ書66章18節以下の幻の成就を表す、という見解もあります。そこを読んでみましょう。

 

 わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。5 わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。新月ごと、安息日ごとに/すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと/主は言われる。

 

宣教の結果として、ユダヤ人と異邦人とを含む「すべての肉」(イザヤ66:23)が主を礼拝する。彼らはタルシシほども遠方から来る。タルシシとは、つまり、スペイン(イザヤ66:19)であって、ヨナ書や詩編にもありますように、そこは「地の果て」(詩編72:8-11, ヨナ1:3)と思われていた場所です。

 こうして旧約聖書の遠心的な宣教の働きは神が選んだ使徒パウロによって実現されて、教会の使命へと託されて行く。このように神の選びは宣教という使命への選びであることが明らかにされます。そして終末を目指す神の祝福は、神の選びを通して、世界規模に拡大されて、黙示録の幻にあらわれる全宇宙の賛歌に至る。以上が、カイザーが纏めたところの、旧約聖書を伝道または宣教という視点で眺めたときの救済史の大枠です。ボッシュが指摘するように、旧約から新約への移行には大きなパラダイム転換が起こったことは確かだろうと思います。しかし、神学の問題として、神の業である宣教は旧約・新約を貫く一連の物語性をもっていて、そこに神の聖定に根拠づけられる宣教の起源・主体・手段とが開示されているわけです。

 

 

2. 詩編と宣教

 

 さて、前半は大枠について述べましたので、残る時間は個別のテキストから旧約と宣教との関連を探ってみたいと思います。今回取り上げるのは詩編です。ちょうど『150のジュネーブ詩編歌』が出版されたタイミングでもありますので、皆さんに詩編の新しい側面に目を留めていただいて、さらに歌っていただきたいと願っています。

 「詩編は世界最大の宣教の書物のひとつである」とも言われます。そして、詩編の賛歌は「宣教の説教に等しい」にも等しく、そこでは世界の諸民族に関連する語彙が175回以上現れることからも明らかです。詩編全体の宣教的な性格を扱うことは今回できませんが、「宣教の詩編」とも呼ばれるものを選んでみますと、詩編2,33,66,72,98,117,145が挙げられます。カイザーはそこに、詩編67,96,100を加えて解説を与えていますので、今回は117編を最初に取り上げて、続けて67編を見たいと思います。

 

詩編117編

 

一       主をたたえよ、すべての民族よ

    彼を賛美せよ、すべての国民よ。

         まことに、

          彼の慈愛がわたしたちを覆い尽くす、

          主の真実が永遠に。

          ハレルヤ。

 

 全二行からなる詩編中最も短い詩篇で、全世界が主なる神をたたえるよう呼びかけられています。一節の上句と下句とはきれいな同義並行をなしていて、「民族」と「国民」とはほぼ同じ意味です。後者をイスラエル内の諸部族と理解することもできなくはありませんが、この二つの語で世界にある大小すべての民族が指示されるものと思われます。一節が世界のすべての民の召集であって、二節はその根拠です。そこでイスラエルを慈愛と真実とをもって支配する神の栄誉が賞賛の言葉のうちに告知されます。新共同訳では「私たちを超えて力強い」となっていますが、原語をみますと「超えて」は「上に」ということですから、「慈しみとまこと」が民を飛び越えてしまっては仕方ありません。「力強い」というところを私の訳では「覆い尽くす」としましたが、要は神の愛と真実とが、今賛美を歌いつつ礼拝を奉げている民全体の上に力強く及んでいることを歌うとの解釈です。つまり、神の愛と真実による支配の実現が表されている。岩波訳では「圧倒する」という表現が採用されていますが、これは適切な訳であると思います。「慈愛と真実(ヘセドとエメト)」は、詩篇ではよく用いられますが、恵み深い神の御性質を表しています。

 こうして本詩篇は短いのですが、全世界に支配を及ぼす神の栄光と、恵みによってイスラエルを選び出された歴史における神の救済、そして、その特別な啓示によって世界の民を召し集められる神の宣教の意志とをはっきりと宣言しています。詩篇の賛美において、神は全宇宙の創造者として顕現します。それは創世記の冒頭に記された天地創造の告知においては自明であっても、全世界は堕罪の闇に閉ざされたまま、神の真実を知らずに離散しているからです。イスラエルの経験はその闇の中にあっての光との遭遇であり、モーセを代表とする神の言葉の担い手たちによる数々の救いが選びの民をかたどりました。そうした選びの民に対する神の特別な憐れみは、イスラエルに対して特別に全身全霊の応答を求めますが、それは神と選民との間においてのみ成就される実存的な救済の出来事には終わらずに、世界的な出来事としてすべての民に開かれています。そこに示される神の意志は、世界救済であって詩篇に相応しい創造者の心です。神は人間に留まらない、自らが創造したすべての被造物を存在の歓びへと呼びかえすのです。

 イスラエルの民が礼拝に集い、「慈愛と真実」という神の御名を心からたたえ喜ぶとき、その人生の充満は選民に独占されてはなりません。むしろ、そこに神の呼びかけがあり、「神はどこにいる」とうそぶく諸国民が、心を惹かれる偶像を捨てて真理に立ち返る道が用意されている。もとよりイスラエルもまた闇の住人であって、その中でも小さな、雑多な人間の集まりに過ぎませんでした。そうした彼らを集め、モーセの言葉によって訓育され、歴史的な破滅にも関わらず慰めと励ましを怠らずに彼らを「若妻」「我が子」と呼びつづけた神は、同じように世界の民を我が子として呼びつづけます。詩篇が後世に伝えるイスラエルの礼拝には、そうした神の宣教の意図が込められていて、その真理と慈愛は御子の受肉において決定的に顕在化し、後に福音としてイエスの名の下に集められた教会へ委託されます。ですから教会は、旧約の歴史を通った神の救済意志の伝達経路として今世界に派遣されています。教会に集うわたしたちの賛美は、イエス・キリストの救いに根拠付けられて、今こそこの賛歌を口にすることができるのです。主の日の礼拝の度ごとに「世界の民」が呼びかけられて、真に「すべての民」の賛歌が献げられる世の終わりに至るまで、神の国の門がそこに開かれます。

 

詩編67編

 

       指揮者に。演奏とともに。歌曲。詩。

 

       神が、わたしたちを憐み、わたしたちを祝福されるように、

          御顔がわたしたちを照らされるように。                セラ

       地にあってあなたの道を知るために、

          全民族にあってあなたの救いを。

       人々があなたをたたえるように、神よ、

          人々がこぞってあなたをたたえるように。

 

       諸国民が喜んで歓声を挙げるように、

          まことに、〔あなたは世を義しく裁き、〕

          あなたは人々を公平に裁き、

諸国民を地にあって導かれますから。   セラ

       人々があなたをたたえるように、神よ、

          人々がこぞってあなたをたたえるように。

 

       地はその実りをもたらしました、

          神、わたしたちの神が、

          わたしたちを祝福されるように、

          神が、わたしたちを祝福されるように。

       そして神を畏れるように、

          地の果てすべてが。

 

 注解者たちは「民の感謝の歌」(グンケル)、「祝福の詩篇」(勝村)、「豊作を求める祈り」(フランシスコ会訳)などと内容に即した表題をつけていますが、この詩篇を創世記12章3節と結びつけて「旧約聖書のpater noster」(我らが父の詩篇)と呼ぶこともあります。この神学的な結びつきは重要で、アブラハムを通して世界の国民に与えられた祝福が、この詩篇を通して祈られ約束されています。この観点からして、この詩篇を「宣教の詩篇」と呼ぶことができるようになります。カルヴァンも本編の注解の冒頭に「要旨」を附して次のように纏めています。

 

 これは教会の至福のための祈りである。ダビデは神が教会を、ユダヤの地で守り保たれるだけでなく、これを増し加え、未曾有の伸張を許されるように、と祈る。ここでダビデは、簡潔に、キリストの来臨において、全世界に樹立されるはずであった神の国について論ずる。

 

 段落は三つに分割され、その狭間に主題を担う繰り返し句が挿入されます。リフレインの末の「セラ」とは区切りを表す記号のようで、そこで間奏が挟まれたのか、会衆の合いの手が入ったのかと想定されるが定かではありません。まず第三段落の7節には「地が実りをもたらした」という収穫を表示する句があり、これを生活の座と捉えて、本編は収穫祭に歌われた歌であるとする考えも成り立ちますが、「諸国民の祝福」という終末的待望の主題からして、7節は暗喩的に用いられている可能性がありますので、「豊作」を字義どおりに限定する歴史的釈義は注意が必要です。シャブオート(=収穫祭、ペンテコステ)の感謝の歌であったかも知れませんが、その内容は明らかに神学的です。

 

 二節の文体はアロンの祝祷(民数記6章24−26節)を彷彿とさせます。7節とともに、「わたしたち」イスラエルの祝福が祈られます。しかし、この詩篇の射程は選びの民の内部に閉ざされたものではなく、むしろそこから外へと拡大するところにこそ特徴がある。2節・7節の「われらの祝福」は、後続する3節・8節では地上のすべての国民へと展開しています。この構造は、先に見た詩篇117編に端的に見出される「宣教の構造」とも言うべき型をもっています。そして、ここに神の祝福の道筋と民の選びの目的が表示されるわけです。すなわち、地の果てに至るまで、すべての国民を真の神への信仰に導くことがイスラエルの召命であって、教会はそれを受け継ぐのです。これは、アブラハムに与えられた祝福と約束が、アロンの祝福を通って、ここでも効果を発するのでして、さらに復活のキリストの祝福を目指しています。

 

 三節にある「あなたの道」と「あなたの救い」は並行しており、互いの関連性をよく示しています。それは神が啓示された救いの道です。それを知ることと神を畏れること(8節)とは一つであって、世界の国民はイスラエルに啓示された救いの神を知って、会衆の讃美に参加します(4・6節、リフレイン)。

 

 この詩篇の中心は五節で、義の神の顕現が告知されます。期待された神の公平な裁きが実現されると歌われたことで、本編は終末の歌となり、七節の表現は元来の農作物を「しるし」と見做し、神の目的に沿った霊的な収穫となります。つまり、悔改めた異邦人の魂です。こうして、「過ぎゆくものが、永遠にいます方の約束になる」とヴァイザーはいいます収穫祭=ペンテコステが暗示する「来るべき日」(ヨエル書3章1節)に、神の裁き=義が天から降りたって、地上の諸国民は歓呼をもってこれを迎え、実現された祝福の中でこぞって真の神をたたえます。神はこの詩篇の祝福の中に力強く民を召し出しておられる。召し出された民は、その祝福を携えて世界の隅々へと駆けめぐります。宣教の業は初めから終りまで祝福の力による神の計画の実現として世に表され、民をキリストの内に選んで派遣しつづけています。

 

 他にも、93編−100編にあります、いわゆる「即位の詩編」が本来取り上げられるべきでしょう。しかし、今回はここまでにしたいと思います。二つの証言で十分だと思いますが、詩編は高らかに神を世界に向けて証ししています。イエスも使徒たちも、詩編を歌いながら神の国をのべ伝えました。それは鼻歌まじりの楽しさであったかもしれませんが、本来はそうではなく、詩編の御言葉がその内に漲って、彼らを宣教に押し出していたのでしょう。伝道において力があるのは神の言葉です。その証をいかにすべきか、わたしたちは悩みますけれども、詩編のことばが私たちの口に上るとき、そこで神の宣教がなされていることを私たちは知ることができると思います。

 

おわりに

 講演の後でもたれた懇談の席で、安田吉三郎先生より貴重なアドヴァイスをいただきました。まず、ヘブライ語で書かれた旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたことが新約聖書の成立に大きく関わることを考えれば、新約の前備えとしての役割だけに旧約を考えてしまうのはどうか。ギリシャ語で歴史を記してキリスト教会に旧約の意義を多大な影響力をもって伝えていったヨセフスの功績がある。旧約が旧約として伝えられることの意義は、キリスト教会の健全な形成にも欠かせないことは、日本のキリスト教会の歴史でも確認されてきた事である。日本ではヨブ記やコヘレトといった通常は周辺的な書物と思われるものが、人の心によく訴えるという事情もある。それらを考慮して、旧約そのものの宣教的な契機を見逃すべきではない、という内容であったと思います。私の構想とは全く違う角度からのご指摘に、多くを教えられました。講演では触れることができませんでしたが、当日のレジュメに記載したものに、「旧約における宣教と現代」というメモがあります。旧約聖書から宣教の根拠を探るのではなくて、旧約聖書が宣教にどう用いられるか、旧約の言葉の直接的な問いという観点からも今回の主題を論じることができるであろうと考えました。以下にそれを紹介して、私としては今後の課題としたいと思います。

 

《旧約における宣教と現代》

1.審判預言と一神教弁証の可能性

                梅原猛の一神教批判(多神教擁護)のプロパガンダに対して

カナン宗教に対決する旧約倫理の実効性(宣教における律法の見直し)

                宣教と共同体(教会)との必然的結合(個人主義-敬虔派・リベラリズム-批判)

2.神の正義の告知

                帝国主義批判−小さき者の自覚

                政治と暴力への警戒

                真の権威の所在-神の権威は人間の権威を相対化する

3.宣教論の創造論的パースペクティブ

                「神の国」のコスモロジー:宇宙論、生命倫理との連関

                宣教に向かう「震源」としての礼拝

4.聖書神学を総合する宣教的視点

                律法・預言・知恵を生きる、神のことば=イエス・キリスト

                宣教は、イエス=ことばにおいて果たされる。

 

≪参考文献≫

Bosch, David J. Transforming mission, Paradigm shifts in theology of mission, Maryknoll, Orbis, 1991. [邦訳] デビッド・ボッシュ著「宣教のパラダイム転換(上・下)」東京ミッション研究所訳、新教出版社 1999

Bavinck, J H. An introduction to the science of missions, tras.by D. H. Freeman, P&R Publishing, New Jersey, 1979.

Kaiser, Jr., Walter C., “The Great Commission in the Old Testament”, International Journal of Frontier Missions vol.13:1 JAN.-MAR. 1996.

Kaiser, Jr., Walter C., Mission in the Old Testament – Israel as a Light to the Nations, Baker, Grand Rapids 2000.

Wright, G.Ernest, "The Old Testament Basis for the Christian Mission", in The Theology of the Christian Mission, G.H. Anderson ed., McGraw-Hill Book Company, New York, 1961.