マタイによる福音書22章1-14節

王の婚礼への招待

 

 主イエスがエルサレムの神殿で、祭司長や民の長老たちを前にして語った説教がこのところで続いています。すでに二つの例えが語られまして、イエスの内に神のお働きを認めなかったエルサレムに対する神の審判が告げられました。これによって、神がお定めになった救いの道は、ユダヤ民族の旧い信仰から、キリストを通じて全ての人々に開かれたキリスト教会の信仰へ進むことが明らかにされます。

王子の婚宴

 今日の箇所は二つ目の例えになりますが、それが意味することは先の「ぶどう園と農夫」の例えとほぼ同じです。「婚宴のたとえ」で描かれる王の役割は天の神を表わします。「家来たち」は先の例えで用いられた「僕たち」と同じ言葉です。ですから、それは神のもとから遣わされた神の僕たちのことです。「王子」は「息子」ですから、これがイエス・キリストに相当しますが、この例えでは積極的な役割は与えられていません。ただ、「王子のための」という一言で、この話の舞台となっている婚宴の主役であることが示されています。

 ここで「婚宴」つまり結婚披露パーティーがモチーフとして取り上げられているのは、ただこの場限りの思いつきではないと思います。9章で断食問答が交わされる中で、ヨハネの弟子たちが、なぜイエスの弟子たちは断食しないのかと問われたのに答えて、主イエスは「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」と、弟子たちと共に過ごされる今の祝福された時についてお話しになりました。また、25章へ進みますと「十人のおとめ」のたとえの中で婚宴のモチーフが再び取り上げられています。

 そもそも婚礼のたとえは、旧約聖書でしばしば主なる神と選ばれた民イスラエルとの関係を表わしました。例えば、エレミヤ書2章2節にこうあります。

 行って、エルサレムの人々に呼びかけ/耳を傾けさせよ。主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心/花嫁のときの愛/種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。

また、先ほど一緒に交読しましたイザヤ書62章5節には、「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」とあります。婚礼は神と人との出会いとそこで生じた絆を表わす最も甘美な表現であって、それに伴う宴は神の救いが人々の間で実現することを喜び祝うしるしでした。

 この例えは新約聖書に持ち越されてキリストと教会との関係を表わすモチーフになります。ヨハネ黙示録19章では、世の終わりについてのイメージが次のような幻として描かれます。

 わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。7わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。8花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」9それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。(6-9)

このように、教会は「キリストの花嫁」であり、来るべき世の終わりには、小羊であるキリストの婚宴が開かれる、とヨハネは告げています。

 聖書にある「婚宴」の例えは、預言者が語った終末の救いの成就から黙示録の告げる天上の幻を貫いて、私たちのささげる礼拝に重要な意味とイメージを与えてくれます。これによれば、私たちのささげる礼拝は、この場に主人であるイエス・キリストをお迎えする婚礼の式典です。ここにはキリストとの出会いの喜びが満ちていて、神の祝福が満ちあふれる晴れがましい祝宴が映し出されます。そのような幻をもって、神の救いが私たちの上に実現したことを心から喜んで、生き生きとした礼拝の交わりをかたちづくることは、キリストの教会を共に作り上げていく私たちの目標の一つです。

招かれる人々

 さて、今日のたとえ話は、祝宴の様子を事細かに描き出すことよりも、王がそこへと客を呼び集める行為に焦点が置かれています。予め招待を受けていた人々とは、預言者たちの言葉を聞いていたはずのユダヤ人です。王は僕たちを送って彼らを呼びにやりましたが、招待客たちは誰も来ようとはしませんでした。それでも忍耐深く王は再び別の僕たちを送って、すべての準備が済んでいると伝えさせますが、初めの招待客たちは誰も応じませんでした。彼らは僕たちの言葉を無視したばかりか、残酷な仕打ちをして命を奪うことまでします。これは、先の「ぶどう園と農夫」にも描かれました、神の僕たちとエルサレムの民との関係を表わすものです。特に、ここには後に主イエスの弟子たちが福音宣教に出て行った時の状況も含まれています。「すっかり用意ができています」と僕が伝えたように、イエス・キリストによる救いは十字架と復活によって果たされて、神の側でお膳立てが完了したのにも関わらず、人々はそれに対して無関心であり、或いは迫害をもつて答えました。7節にある王の振る舞いは、例えにしては過激に過ぎる描写にも思えますが、ここには実際にエルサレム神殿がローマの軍隊によって焼き払われた歴史的事情が反映されています。

 王の招待を軽んじて、かえって身の破滅を招いてしまった人々の振る舞いには人の罪深さ愚かさがよく表わされていると思います。初めに招待を受けた人々、つまり王の食卓に呼ばれる約束された人々は、その光栄よりも自分の都合を優先させました。畑仕事をしたり、商売に出かけたりする日常に埋没してしまつて、自分の命を左右するお方のことを真会1に受け止めていませんでした。神の側では、晴れがましい婚宴の席が設けられていて、素晴らしい食事も無償で振る舞われるよう準備が整っている。にもかかわらず、その招きに無関心であるばかりか、そうした神の働きに悪をもつて応えるほどの救い難さが人間にはあるのだと思います。

 こうした「世俗性」はイエスの内に神を見ることができなかつたユダヤ人たちに働いたのでしょうけれども、それは時代の流れですから、いつの時代にも信じる者たちの間に生じる危険だといえます。生ける神の御前で、恵みによつてキリストの栄誉を受けている、ということの真実をいつも覚えていることは、私たちの命を左右する大切なことです。

 エルサレムの人々、つまリユダヤ人たちの拒否によって、神の招きは大きく方向転換しました。王は家来たちにこういいます。

 婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかつた。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。

「町の大通りJとは、町と外部とを結ぶ境界線に当たる部分で市場が開かれる場所であったといいます。ですから、「見かけた者はだれでもJと言われる中には、社会の周辺に追いやられた人々や異邦人たちが含まれます。10節では「善人も悪人も」と、善悪が強調されています。王子の婚宴は、本来招かれる筈も無い多くの人々によって満席となりました。神の国の福音は、実に気前よくどんな人にも分け与えられます。身分の差別や善悪の区別さえもないのですから驚くべき寛大さではないかと思います。皇太子の披露宴でしたら私のようなものが呼ばれる気遣いもありませんけれども、それにも遥かに優る天の王子の披露宴には誰であっても招かれて食事の席に着くことが出来る、というのです。

 イエス・キリストの福音とは、このようなものですから福音と呼ばれます。キリストの救いを受けるのに、世の中が求めるような格付けは必要ありません。ただ、本当に救われたいと願って、聖書に導かれるがままに、罪の赦しと新しい命とを謙遜に受け取るならば、誰でも「キリストの花嫁」である教会の一員として迎えられます。

 福音を伝える宣教・伝道の働きもそのようなものです。教会による宣教の働きは、人間の日で相応しい人を選り分けて人を集めてくる人の働きではありません。イエス・キリストが霊において僕たちを動かして、教会を用いてなさる、人を招く働きです。ですから、主イエスがそうなさったように、人を偏り見ることをせず、むしろ、世間では顧みられない弱い立場の人たちのところへ積極的に出て行って、「婚宴の用意がすっかりできています」と呼びかけます。

 もちろん、これは御言葉に表わされた理想であって、現実の教会はそうではない面があると思います。ですから、御言葉にある真の教会の姿を絶えず思い起こしながら、それに照らし合わせて宣教の現実を反省することも教会には欠かせません。今ある教会の形には、そのようになってきた歴史や経緯がありますから、それを十分ふまえた上で、よりキリストの福音に相応しいかたちを求めます。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも連れてきなさい」という言葉を受けて、私たちはどのように応答できるか、またこれからよくよく話し合って、快く伝道の働きをしたいと思います。

 私の学生時代に、東京の奥多摩で全国学生会修養会が開かれまして、「伝道」というテーマで吉岡繁先生から5回に亘る講演を聞いたことがあります。その後の全体会で、各自学んだことを発表する機会がありまして、その時に一人の学生が立ち上がって、「こんな山奥で勉強している暇があつたら、町へ出て路傍伝道したほうがよい」と発言しました。修養会を通じて、心が燃えたのかも知れませんけれども、すぐさまそれには学生からの応答があって、「自分一人でそうしてくれても構わないけれども、私たちがここでも学んだ伝道の姿勢はそういうものではない」と冷静に答えました。

 自分の行為に集中すると、先の学生のような熱のこもった衝動にもつながるのでしょうけれども、大切なのはまず今日の例えにも示されている神の御旨です。この例えは、「天の国のたとえ」ですから、その神の御旨を表わすものです。神が誰でもキリストの婚宴に招きたいと思っておられるので、その御心を受けて、私たちに何ができるかと考えて行動するという順序が大切です。例えば、異邦人の宣教者にされたパウロも、衝動的に大通りへ出て行って呼ばわったのではありませんでした。主が福音によって誰でも教会に招かれることを知りながら、教会の働き人として、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように」接する術をも巧みに使い分けて、知恵と力を尽くして福音宣教に仕えました。私たちに必要な模範は聖書自身にあります。

選ばれる人々

 例えは10節でひとまず結論が出ていますけれども、11節からもう一つのメッセージが加わっているところが、この例え話の特徴でこれまでなかった点です。これは、改めて招かれた客の中での出来事ですから、ユダヤ人たちに対してではなく、キリスト教会に向けて語られたものです。

 王は宴席がいっぱいになった様子を見るために会場に来ます。そこで、一人の「礼服を着ていない者」を見つけます。道ばたで声を掛けて連れてきたので、そういう者が一人いても仕方ないと思いますけれども、例えですので、そこはよく真意を汲み取りたいと思います。王は、その一人に「友よ」と丁寧に呼びかけます。礼服を着ていない人を見て、その人の身分を察知したというのと違います。もし、貧しくて礼服をもっていなかつたのならそのように言い訳ができるはずですが、「黙っていた」のはそういう理由が無かつたからだと思います。つまり、そこが王の婚宴の席上であることを弁えない、反抗的な態度がその沈黙に現れています。そこで、王はその者を宴会から閉め出すよう奉仕者たちに命じました。

 「側近の者たち」は「家来たち」とは違う言葉でして、「ディアコノス」という教会の奉仕者たちを指しています。ですから、これは教会の中でのことを表わしています。先に招かれたユダヤ人たちは「ふさわしくない」と言われて退けられました。けれども、後で招かれた者たちであっても「礼服を着ないで婚礼に来た」者たちはふさわしくないとされて退けられます。ユダヤ人に起こったことが、キリスト教会にも同じように当てはまる、ということです。

 つまり、ここでは「礼服」に喩えられていますが、その意味するところは信仰の「実」です。王の婚宴にはふさわしい礼服が伴うように、神の国にはふさわしい信仰の実が伴います。21章43節で、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」とありました。また、先に引用した黙示録19章ではこのように言われていました。

 小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。(7-8)

この花嫁は教会です。そして、花嫁には「清い麻の衣Jが着せられて、それは「聖なる者たちの正しい行い」だと言われます。つまり、今日の例えにある「礼服」とは、信仰にふさわしい実りであり、それは「正しい行い」です。

 この実りがあるかどうか、神は御子キリストを世に送って、世の中をご覧になりました。ところが、かねてから約束を与えていた旧いイスラエルの間には、その実りは見当たらず、かえって「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ように呼びかけた僕たちに暴力で応えました。これに対して、神は「ふわさしい実を結ぶ」人々をキリストのもとに呼び集めます。かつての暴力的な人々のようではない、心から罪を悔い改めて、キリストの言葉に導かれて生きる、新しい人々です。

 「正しい行い」の基準は、ですからキリストにあります。マタイ福音書では既に山上の説教を通してその内容が語られています。それは、キリストによって救われた命を、神からのプレゼントとして感謝して受け止めて、神と隣人に対してどこまでも愛と真を尽くして生きる、キリスト者の生活に実を結びます。

 黙示録の御言葉と合わせて言うならば、礼服はプレゼントされたものです。輝く清い麻の衣は、自分の部屋のショーケースから取り出したお気に入りの装いではなく、神から花嫁に贈られたものです。キリスト者の生活に実を結ぶ「正しい行い」すなわち愛の奉仕は、キリストを信じて、その言葉に聞き続ける忠実な教会に与えられる天の国の証しです。

 「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と主は言われます。気前のいい宣教によつて、誰でも福音を聞くことが出来、誰でも神に近づくことが許されています。しかし、招かれた祝宴に与って真実な喜びと楽しみを与えられるのは、生活ヘ実を結んだ、天国の証しをもつ人々です。「選ばれる人が少ない」のが現実であるかも知れません。この地上の生涯で信仰の証しを保ち続けるのは人間的には困難な道だと思われます。しかし、選ぶ神は自由なお方で、キリストのもとに集う私たちの祈りを聞き上げてくださって、自分が選ばれていることの確信を強めてくださって、私たちの毎日の生活の中によい実りを生み出してくださいます。「ネL服を着ないで黙って立っている客」にならないように、心に晴れ着を着て、いつも礼拝の場にも集うものでありたいと願います。

祈り

 天の父なる御神、あなたを知らずに道を弁えずにおりました先から、あなたは私たちを認めて、主イエスの婚宴に喩えられる天の恵みに与ることができるよう、私たちを選んでいてくださったことを心から感謝します。どうか、私たちがその恵みにふさわしく主イエスに表わされた愛に基づく生活をかたちづくることができるように、私たちの信仰を生き生きと保たせてください。そして、教会がいよいよキリストの婚宴にふさわしく、天の国の宴席がいっぱいになるように、あなたがお招きになる兄弟姉妹で満たされますように、私たちの宣教の業をも用いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。