ルカによる福音書18章9~17節

神の国の子どもたち

 

平和を妨げるもの

 今、私たちが直面している破れ口は、旧約聖書のモーセや預言者エゼキエルが立たされたイスラエル社会の破れ目と少しも変わらないものではないかと思われます。法があっても尊ばれず、貧しい者が見捨てられ、力ある者が富と権力をほしいままにして、社会が破滅に向かう状況です。神に召された僕たちはその破れ口に立ち、人々の立ち返りを求めて神の裁きを告げて、神と人との間を執り成そうとしました。

 私たちの時代を広く覆っている一つの価値観は「新自由主義」と呼ばれます。そこでは努力した者だけが報われるべきだとし、競争を肯定的に捉えて、個人の能力による公平で自由な評価を基準に分配を行います。人間観もそこでは市場原理に侵食されます。つまり、役に立たない人間には価値がないわけです。文系科目は価値のないものとされて、学校でも会社でもいかに役に立つ人間になるかが目標になる。

 そういうところで、一昨年、相模原市で障害者施設でのテロ事件が起こったのは実に象徴的です。これが単に一人の狂人による偶然の出来事として捨て置けないのは、犯人を英雄視する声がネットやツイッターに寄せられたことです。自分にもそういう思いが僅かながらあるのに気づいた、という一般の反応もありました。役に立たない者は抹殺すべきであるとの信念に基づいてこれを実行したのは、第二次大戦中のナチス・ドイツによる「T4計画」でした。新自由主義による伝統や共同体の解体は全体主義に近づく、と論じる方がありますが、それが今、私たちの時代にもたらされた「破れ口」ではないかと思わされます。聖書の教えに照らして言うならば、私たちは「この世の栄光」を目指す世界に今閉じ込められようとしています。そうして神の言葉を締め出すことで、罪の裁きを招こうとしている。

イエスのたとえ

 主イエスは、「自分は正しい人間だと自惚れて、他人を見下している人々に対して」語ります。格差のあるところで教えておられます。「格差」の問題は単に収入にばらつきがあることではなくて、まさにここで描かれるような心の問題ではないかと思われます。一人は豊かで潤っている。一人は貧しくて生活に苦しんでいる。一人は誇りをもって社会に立場を得ている。一人は誇りも持てずに人前に出ることも憚られる。ここに格差があって、驕りと卑屈と差別とを生じさせています。

 譬えに登場するのはファリサイ派と徴税人です。この両者の間を隔てているのは経済的な差ではなくて、宗教的なそれです。ファリサイ派には自分が正統的な信仰の継承者だとの自負があります。加えて、その伝統に則って自分は正しくふるまっているとの誇りと自覚があります。具体的には「自分は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではない」こと、つまり十戒をもれなく守っているということ、さらに、「週に二度断食し、全収入の十分の一をささげている」という積極的な礼拝の実践が伴っています。あなたの信仰は立派だと、あなたこそ価値のある人だと、皆が認めてくれます。

 他方は徴税人です。皆がそうだと認めていた罪人です。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」たちの仲間です。まともに礼拝に出ることもできず、皆からいなくなってくれた方がありがたいと思われているような価値のない人間です。そこで、ファリサイ派の立派な人は、彼を見て、自分と比べて、こう祈っています。「自分はこのような者たちでないことを感謝します」。これが「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」の例だとイエスは言います。

 「ヘイト・スピーチ」が未だに燻っています。目に見える場所で事が起こっていなくても、在特会の前会長である櫻井誠氏が東京都知事選挙に立候補すれば10万票を超える票を得たりします。「ヘイト」の特徴は、偏見や誤った知識に基づく正義感をその感情の根にもっていることです。まさにそれは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」の実例です。若者がこういう運動の中心にいると考えるのは誤りで、中には若い人もいるとは思いますが、多くは40代以上の立派な社会人だと言われます。古い生活規範などは失われつつある今日ですから、この人たちの「正しさ」が一体どこに基盤を持つのか不思議ですけれども、おそらく会社で言われた事はちゃんとやっている。世の中で人から後ろ指をさされるようなことはしていない、というような「感覚」なのでしょう。本当に自己が確立していて豊かな人生を送っている人は、他人を見下したりはしないはずです。けれども、その正しさを確保するためにしのぎを削るような生活をしている人は、上司や親や友人からかつて責められて傷ついた劣等感が常に疼いて、隣人に対する厳しい言葉を抑えきれないのでしょう。譬えが描く「ファリサイ派」の姿勢は、ローマの支配の下で傷ついた民族意識をかかえて伝統遵守に汲汲としていたユダヤ人の様子を戯画的に暴露したものです。戦後、アメリカの支配から片時も逃れる事が出来ずに歪んだ自尊心を育んできた日本人と相通じるものがあるように思います。

 このイエスの譬えは、人間による人間の評価ではなく、神がどのような評価を人間に与えるかを教えています。この譬えの驚きは、徴税人がファリサイ派に勝るとして、社会通念を転覆させたところにあります。ファリサイ派に対する「当てつけ」ですけれども、そこにこそ人が気づかなければならない事があるわけです。徴税人は、もちろん常日頃の振る舞いが評価されたわけではありません。彼は自他共に認める通りの罪人です。けれども、彼は正しく自分を知っています。自分のありのままを見つめて、自分は救い難い罪人だということに心を痛めています。この徴税人のへりくだる様子が丁寧に描かれているのは、それを私たちがじっくりとなぞるようにして心に留めるために違いありません。彼は「遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら」こう言いました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。自分が救い難い罪人であると知っているとは、こういうことだと描いて見せています。「僕は罪人、あなたも罪人、人間は皆罪人」という罪についての表面的な知識ではないわけです。そこには自分が罪人であることの恥と痛みと恐れが息づいていて、それでも神に向かわざるを得ないから、「憐れんでください」との最小限の言葉が絞り出されます。

 ここから、人の死も生も司っておられる真の神に対して、真実なささげものをしているのはどちらか、ということが明らかです。譬えが描くのは、一方ではファリサイ派のささげものの偽りです。彼が気にしているのは神ではなく他人の目です。そして、自分を見つめる自分の目をも欺いています。彼は生きておられる神を知りません。彼はこの世の栄光の中に自分の居場所を定めています。方や徴税人は、ひたすら神に赦しを乞います。そうするしか生きて行くすべがないからです。そして、真実なささげものをしているのはこの徴税人の方です。なぜなら、彼はありのままの自分を知って、神に心を明け渡しているからです。心の伴わない形ばかりの知識や礼拝は神に向かうどころか、そこで対面しておられる神を愚弄しています。

 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。(14節)。

神が人に求めているのは真実に悔い改める心です。だから、むしろ「罪人」であることを知っている徴税人が神に評価されて、価値ある人間だと言われます。

  だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

子どもたちの国

 神を見失った世界が押し付けてくる虚しい価値観に対抗して、キリストがおられる神の国の価値観を私たちは聖書から学びます。罪人こそが神に報いていただけるとはどういうことか。罪人だから憐れんでもらえる、ということです。神は人間が罪に汚れているのをご覧になって憐れんでおられる、ということです。そこで、自分は大丈夫だ、正しく生きているんだ、と勝手に自覚している立派な人には、その憐れみが届きません。神に憐れんでもらう必要なんかない、と思っているからです。私も何度も知人からそう言われた経験があります。「憐れむ」なんて勘弁してくれ、と。日本語のニュアンスがいけないのかも知れませんね。「愛する」の方がよく伝わるかも知れません。けれども、「罪」のことを考えるときに、やはり「憐れむ」でないと正確ではありません。神は私たちが罪によって滅びてしまうのを忍びなく思って、私たちの罪を赦して受け入れ、新しい命に生かしてくださるお方です。

 その事を明らかにするために、先の譬えには一つの小さなエピソードが続きます。イエスのもとに親たちが幼子たちを連れてきた。ちょっとでも良いからイエスに触れて欲しい。素朴で健気な信仰です。ローマ法王がやってくるとどの町もそんな風景になりますが。もちろん法王はキリストではありませんけれども。そういう親たちの素朴で健気な信仰をイエスは決して退けませんでした。そして、ここにも立派な大人が介入してきます。今度はイエスの弟子たちです。「赤ん坊はうるさいからあっちへ行きなさい」とでも言ったのでしょう。イエスの説教を聞く資格など子どもたちにはない、との誤った見積もりがそこにあります。あるいは大人の驕りです。けれどもイエスははっきりこう仰いました。

 子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(16、17節)

神の国は子どもたちのものである。子どものように、まっすぐ神の国を受け入れなければ、人はそこに入ることができない。「徴税人」と「子ども」では種類が違うように思われるかも知れません。けれども、どちらも世の中では価値がなかったり、未熟だったり、と見做される小さな人であることには変わりがありません。子どもは案外エゴイストですけれども、イエスに触っていただくことを特別に嫌がる理由ももちません。親に連れてこられるがまま、イエスを通して神に祝福されるがままです。うぬぼれるでもなく、他人を見下すでもなく、神に受け入れていただくままに、自分を明け渡す人が、神の国の住人です。

 教会に集う私たちは、そうやって受け入れていただいたはずです。キリストが私の立派さに目を留めて、真の神に引きあわせてくださったのではありません。神は自由に、御子キリストのもとに人を集めて教会をお建てになります。ここに集う人は皆が徴税人であり幼子です。ですから、教会にはいろいろな人生経験をして来た人が集います。教会は直接的に神の国ではありませんが、終末の神の国へ至る道筋がここに備えられています。教会にはおかしな人ばかりが集まる、との愚痴を何度か聞いたことがあります。そこには、もっと立派な人が加わって教会を立派に建て上げたいという人の思いも見受けられます。けれども、そこには大きな罠があります。もしも教会が立派な人ばかりの集まりでしたら、かつてはそのように側から見られていたようですけれども、それはキリストの教会では無くなっているかも知れません。フリーメーソンのような結社であったり、会員制のクラブであったりして、何にせよそれはこの世の栄光を求める場所です。教会はそうではなくて、神に憐れんでいただいた人が、この世に対する神の国の証としてここに集められているわけです。人の目からすると価値のない命の集いになってしまうかも知れません。しかし、神の目からしてそこには尊い命だけが集まっています。そういう証をキリスト教会は世に対してなすために存在する、とも言えましょう。

平和の基である教会

 どんな平和を私たちは願うでしょうか。戦争が無いこと-それは確かに喫緊の課題です。今、日本は戦争をしようと準備しているからです。国際情勢がそれを要請している、と言いますが、簡単に乗るわけには行きません。情報統制が進んでいて報道では実情が分かりづらくなっています。ナショナリズムの復興は政治から見れば都合のいい道具立に過ぎません。憲法を改正して戦争のできる国にしたい人々の理由は、国際情勢を利用して収益を上げる仕組みの中へ積極的に参与したいだけのことです。日本も世界も、イエス・キリストを信じて政治を行っているわけではありません。ですから、教会がいくら信仰に基づいて発言してもそれが具体的な影響を及ぼす見込みはありません。政治はいつも現実的な方向へ流れていきます。けれども、神が御言葉を通して私たちに新しい命をくださったことが真実であり、キリストが世の終わりまで歴史を導いて行かれることが本当であるならば、私たちは「現実的」という言葉に惑わされないで、キリストが実現する平和のために働くより他はありません。歴史家たちが、キリスト教会は必ずしも戦争に反対してこなかった、と書物に記します。それは事実だとしても、それはキリストが戦争に反対しなかったこととは違います。すでに軍隊が力をもってしまっている国々にあって、現実的なこととして戦争を論じざるを得なかった。そして、教会も戦争に加担してきた。だから、我々もそうするということにはなりません。なぜなら、私たちは歴史に従うのではなく、歴史に学びながら聖書に従うからです。聖書から語りかける、生けるキリストに従うのが教会だからです。

 戦争に向かう時代の流れの中では、弱者の切り捨てが顕著になります。役に立たない者は戦場に送り込め。戦争の役にも立たない者は処分してしまえ、と人々が皮膚感覚で感じるようになる前に、私たちにはまだできることがあるのではないでしょうか。個人の自由を最大限に拡大すれば人間の生活はより豊かになり発展する、と信じた新自由主義の時代は、自分の価値を自分で謳歌する人々の競技場へと世界を変えました。キリスト教会もまたその波に飲まれて、心砕かれた人の祈りの家から、スピリチャルな市場へと変わってしまう危険があります。けれども、私たちは時代を越えて、神の恵みに生かされているキリストの体です。神がキリストの十字架と復活によって打ち立てた、平和の証と礎がここにあります。私たちは内に対しても外に対しても、また、個人においても教会にあっても、神の国の子どもたちとして、平和の使者であることへと召されています。命の価値は神がキリストにあって定めておられます。障害があっても、辛い過去があっても、今逃れられないしがらみがあって自分で自分を評価できなくても、神の憐れみはそうした皆を神の国に受け入れてくれます。そこで生きる真実の命があります。世界のキリスト教会が祈りを合わせ、力を合わせて平和に向かうならば、主がそれを成し遂げてくださることを信じたいと願います。また、教会は破れ口に立って執り成す務めをもいただいています。世の終わりには裁きが待っていることは知らされています。けれども、私たちは神の怒りが解かれるように心を合わせて祈ります。政治においても、社会においても、教育においても、芸術文化においても、あらゆる分野で私たちはキリストの平和を求めます。けれども、何より私たちに求められているのは執り成しの祈りでしょう。悔い改める人の心を聖霊が導いてくださるように。この日本でも福音の力がもっと輝きを増してゆくように、各々の献身の思いに合わせて共に祈りましょう。

祈り

御子キリストの十字架と復活によって、世界と和解してくださった天の父なる御神、人間があなたの主権を顧みずに自由を謳歌して、どこまでも思い上がった結果、この世界は弱い者が軽んじられるばかりか、人間の命に価値があることさえ忘れつつあります。私たちはただ、徴税人のようにあなたの憐れみにすがります。幼子のように神の国を受け入れ、主の祝福に与ります。どうか、私たちだけでなく、私たちを通して、人が生きる希望であるキリストの福音を伝えさせてください。そして、主にある罪の赦しをさらに実現させてください。人々の心にある平和への願いをあなたが支えてくださって、人の命が尊ばれる社会を、世界に、また日本にもつくることができるよう導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。