ヨシュア記8章30〜35節「神の掟を心に刻む」

 

契約の儀式

 先週は8章から説教をしましたけれども、今日は30節以下の短い段落を別に区切って学ぶことにしました。ここで簡潔に報告されているのは、ヨシュアがモーセに倣って主の御前に行った契約締結の儀式です。出エジプト記24章にはモーセがシナイ山でイスラエルと主なる神との契約に臨んだくだりが記されていますが、それと同じようにヨシュアは山の麓に祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、モーセの律法を民に読み聞かせ、それを石の上に書き記します。そして、ヨシュアがこれを実行するのは、申命記の中でモーセが命じているからです。この箇所は、申命記27章にある掟の実行です。そこには次のように書かれています。

 あなたたちがヨルダン川を渡ったならば、わたしが今日命じるこれらの石をエバル山に立て、しっくいを塗り、またそこに、あなたの神、主のために祭壇を築きなさい。それは石の祭壇で、鉄の道具を当ててはならない。自然のままの石であなたの神、主の祭壇を築き、その上であなたの神、主に焼き尽くす献げ物をささげなさい。また、和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい。あなたは石の上にこの律法の言葉をすべてはっきりと書き記しなさい。(4—8節)

 神がシナイ山でモーセと契約を結ぶ直前に、イスラエルの民は金の子牛を礼拝するという大きな失敗を犯しました。イスラエルはその時、神の怒りによって滅ぼされる寸前まで至りましたけれども、モーセの執り成しによって、罰は一部の者の上に留まりました。その後、再び神の掟を受けて、神は悔い改めた民を赦して、契約に臨んでくださいました。ヨシュアについても同様に、イスラエルの民はアイの攻略に際して罪を犯し、神に栄光を帰すことに失敗しました。しかし、アカンの罪を取り除くことでイスラエルは裁きを免れて、二度目の戦いにおいて神の御旨を果たすことができました。そうして行われる契約の儀式には神の赦しが示されています。

 少し細かいことにも触れておきますと、主のための祭壇が「鉄の道具を使わない自然のままの石で造られた」(31節)とあるのは、出エジプト記20章25節で次のように命じられているからです。

 もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである。

これは石を削って作られたカナン宗教の祭壇を真似てはならない、という意味があるようです。ただ「自然のままの石」とは意訳でして、原語では「丸ごとの石」です。箴言に次のような聖句があります。

  偽りの天秤を主はいとい/十全なおもり石を喜ばれる。(11章1節)

「十全なおもり石」とは、直訳すれば「丸ごとの、完全な石」です。細工がされていない、ということで、こちらは倫理的な意味で言われます。「欠けのあるものを用いない」のは、神に礼拝をささげる祭司の心がけでもありました。

 焼き尽くす献げ物は、神の怒りを和らげるためにささげものを火で焼き尽くして天に煙を上らせる、イスラエルで最も基本的なささげものです。神の聖所では朝・夕の二回、この犠牲がささげられていました。和解の献げ物はそれに加えてささげられる犠牲ですが、こちらはその一部を奉納者が受け取って、神の御前で食事をすることができる喜びの儀式でした。先に引用した申命記27章7節にも「和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい」とある通りです。

 32節に、ヨシュアが祭壇の石に教えの写しを刻んだ、とありますが、これは新共同訳の翻訳がそう読ませているので、原文で意図されているのはそうではないと思います。原文には「祭壇の石」とは書いていませんし、「刻んだ」ではなくて「記した」とあります。ここは申命記27章の記述にある通り「大きな石を立てて漆喰を塗り」(2—3節)、その上に炭で御言葉を記したのでしょう。石壁に漆喰を塗ってインクで文字を書いたものが、パレスチナの考古学調査で実際に幾つか見つかっています。

 契約の儀式は律法の朗読と民の誓約によって果たされます。申命記27章ではこう言われていました。

 あなたたちがヨルダン川を渡ったならば、民を祝福するために、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ヨセフ、ベニヤミンはゲリジム山に立ち、また呪うために、ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリはエバル山に立ちなさい。(12、13節)

神との契約に基づく祝福と呪いは、申命記の中でモーセによって入念に記されています。ヨシュアは律法の書を読み上げて、一言も残さずイスラエルの民にモーセの命令を伝えて、彼らを生ける神の御前に立たせました。彼らがモーセの律法のすべてに聞き従うのであれば、神の御業が彼らの上に果たされてカナンは彼らの嗣業となります。律法に背く歩みをするならば彼らは土地から引き抜かれます。そのことをよくよく心に収めて、ヨシュアとイスラエルは更なる戦いへと出て行かねばなりませんでした。

 ここを見る限り、契約の儀式は完了していないようです。つまり、読み上げられた律法に対する民の誓約がありません。神との契約が十全な形で結ばれる機会は、ヨシュア記の終わりに至った時点まで留保されます。

寄留者たちと契約

 しかし、この段落は前後のつながりがあやふやで、一見して独立した記事のように思えます。文脈を強く意識しますと難しい問題も出て来ます。たとえば、それが本文にも表れていまして、ギリシア語訳を見ますと、8章は29節で終わっていて、この段落は9章2節に続いて挿入されます。死海写本もまた違う位置にこの段落を置いています。フランシスコ会の注釈聖書では、24章28節に続けてこれを読むとよくつながる、と指示しています。

 前後のつながりが悪いという点では、たとえば、30節の冒頭に「そのころ」とありますが、これがどの時点を指すのか明らかでないことがあります。前からの続きで言えば、アイの聖絶を完了した後となりますが、そこに出ている「エバル山」はアイから32キロ程離れています。そして、エバル山とゲリジム山を臨むのに相応しい場所と言えば、24章の舞台となるシェケムなのですが、8章の文脈ではその近辺はまだイスラエルが戦い取っていない地域です。9章へ進みますとイスラエルの民はギルガルの陣営に留まっています。また、申命記27章では、「ヨルダン川を渡り、あなたの神、主が与えられる土地に入る日に」これを行いなさいとあります(2節)。そうしますと、ヨシュア記4章で書かれたギルガルに到着した時点が本来なら相応しい場所となります。そういう不都合がこの段落には幾つもあるのですけれども、現在の文脈にこれが置かれているのには、それなりの意図があるはずです。

 ヨシュアとイスラエルが戦いとって行く、カナンの土地を巡る戦争は、主なる神の戦いとして、異教の神々のものであるカナン諸民族を滅ぼし尽くして神にささげるよう律法に命じられていました。しかし、初めに実行されたエリコの町の攻略に際しては遊女ラハブの一族が救われる、という例外が生じています。また、アイの攻略に際してはイスラエル自身の失敗とアカンの一族が失われる、という事態が生じました。モーセが告げた神の掟は完全で、ヨシュアとイスラエルにはそれを忠実に実行することが求められるのですけれども、人間の側での応答はいつも不完全なまま残ります。この後、ヨシュアはカナンの王たちに立ち向かって行くことになりますが、その前に9章では、ヒビ人であるギブオンの民が策略を用いて聖絶を免れることに成功します。ヨシュア記はそうして、神の完全と人間の不完全を交互に描きながら、しかし、その人間の不完全な実行をも既に見越している神の御旨を伝えます。

 ラハブの例でいえば、それは予想外のことではなくして、異邦人であり遊女であって、律法の完全さの前には救われようもないと思われる者が救われるのは、「あなたを祝福するものを私は祝福する」との神の約束に適っています。聖絶の掟を汚したアカンが滅ぼされたのも律法の呪いの故と言えますが、その後、略奪が赦されるようになったのも、律法に記された聖絶の掟の段階的表示に則ってのことです。そして、この後、滅ぼされるべき民に属するギブオンの人々が滅びを免れるのも、聖絶の失敗のように思われるのですけれども、そこにも律法の義が示されて、結果としてはその全体が神の御旨として知られるようになります。そういう文脈を考えながら、8章30節以下の段落を見ると、そこにある「寄留者」の存在が気になります。

 寄留者とは、在留外国人のことで、土地を持たない人々です。時々、同じイスラエル人であっても部族の境界を越えて滞在する人をそう呼ぶことがあります。「律法の書」と言われる申命記は、一方でカナンの異教徒たちを完全に滅ぼすように命じていながら、他方では寄留者たちの配慮を怠らないように命じてもいます。たとえば、申命記10章17節以下にこうあります。

 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。(17−19節)

イスラエルは純血主義ではない、とこうしたところから分かります。イスラエルは神との契約によって神の民とされた民族です。そして、今日の箇所からも明らかなように、「寄留者もその土地に生まれた者も」主との契約に臨むことが要請されています。「その土地に生まれた者」とはカナンの住民のことではなくて、生まれながらのイスラエルのことです。真の神である主と契約を結ぶのは、イスラエルの全会衆とその家族―女性も子どもも含めてということ―、そして一緒に生活をしている異邦人である寄留者たちです。

 アイの聖絶を記した後、この出来事が偏狭な民族主義の根拠にならないように、モーセの律法に示された契約の内容を確認するかのように、ここに契約の儀式の一場面が挿入されているのではないかと思います。そして、この後に記されることになるギブオン人もまた、イスラエルの契約の中に入って来ることになります。

 モーセの律法に表わされた神の御旨は、妄想的な民族主義からヘイト・スピーチを繰り返すような罪深い人間の狭量とは違います。真実に御自身を頼って来る人々を、そのまま受け入れてくださって、祝福してくださるお方です。33節の記し方が印象的です。イスラエルには祝福と呪いが提示されるのですけれども、神がモーセに命じているのは「イスラエルの民を祝福するため」だと言います。神は人間を呪っているのではなくて、罪の故に呪われたこの世界から、人間を救い出すために働いておられるのが神です。神のもとには民族の違いや差別を超えた祝福があります。その祝福を得るために、誰もが神の言葉に耳を傾けなければなりません。そして、その言葉を心に刻んで神との交わりの中で生きる時、私たちの人生には祝福された終わりが待っています。

祈り

天の御父、あなたの正しい裁きに私たちは耐ええない罪人ですけれども、あなたは私たちにも逃れの道を備えてくださって、御子キリストの十字架の贖いによって新しい命をくださいました。その光栄に浴している私たちが、キリストの御国のために、御旨に適った働きができますように、いつも語りかけてくださるあなたの御言葉に聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。