東部中会青年会夏期修養会2018年

8月9日(木)〜11日(土)於ホテルサンシャイン鬼怒川

私たちはどう祈るか

 

講演I  聖書から学ぶ祈り

東中青の思いで

 長野佐久伝道所の牧野です。私は江古田教会の出身ですので、こうして東中青の修養会で奉仕できることを、ある種恩返しのようにも感じますので感謝しています。私は青年会の頃、この季節ごとの修養会で多くのことを学ばせていただきました。勿論、各個教会で受けた教育が基礎にあるわけですが、修養会の機会に教えていただいた「宣言」を始めとする信仰告白や神学についての学びは、その後の牧師としての働きに大いに役立ちました。今の私は東中青をご指導くださった熊田雄二先生、鈴木牧雄先生、岩永隆志先生、また講演をしてくださった矢内昭二先生、榊原康夫先生、吉岡繁先生には多くを負っています。こうした先生方は青年の教育に大変熱心に力を注がれました。

 わたしが修養会に参加していた理由は、その時にしか会えない友人がいたり、他教会の女子と話ができることを期待したからですが、一番楽しみにしていたのは信仰の話をすることでした。普段自分が通っている教会では、それがなかなかできないでいました。おかしな話ですが、私も契約の子として育ちましたので、教会は自分の家のようなもので、家族や親しい者たちとはかえって心の奥にある信仰の問題などは口にすることができませんでした。その最たるものが「牧師になりたい」というような思いです。けれども、修養会に来ると、信仰の学びのために皆来ているわけですから、自由に話ができます。皆の証を聞くことができます。それが何より楽しみで参加していました。

 今回は「祈り」についてお話させていただきます。けれども、結論からしますと、「祈り」に関する事柄は、結局は私たちの信仰の問題です。私たち一人一人が神をどのように信じ、生ける神の御前でどのように日々を生きているかがそこで問われます。信じている人は祈ります。祈らないでいる人は信仰が不確かなままです。この修養会では私たちそれぞれが自分の信仰を問いながら、祈りについての学びを進めることになろうかと思います。

1.           人間の本性としての祈り

 近年、祈りに関する書物はたくさん出版されています。これはキリスト教会が祈りの貧困に悩んでいるしるしであると同時に、信徒の間での要求があるからでしょう。その中で、最近、フリードリヒ・ハイラーというドイツの宗教学者による『祈り』という古典が日本語に翻訳されました。1918年に発表された書物で、今年が丁度100年目に当たります。学術的な書物ですから誰でも読みこなせるとは言えませんが、日本語でも600頁ほどありますから、祈りを学問的に理解したい人にはありがたい本です。その本の初めに、祈りについての様々な定義が紹介されています。ハイラー教授自身がまず次のように述べています。

 宗教的な人間にとって、祈りは信仰のアルファでありオメガである。つまり、当たり前で欠かすことのできない生の現象であり、精神的な喜びや道徳的な力の源泉なのだ。(上掲書、9頁)

「宗教的な人間」とは、キリスト教徒とは限りません。それがどんな宗教であろうとも宗教心をもつ人ということです。そして、「祈りは宗教の中心現象であり、すべての信仰の火元である」(21頁)と言って、マルティン・ルターを始めとする神学者たちの言葉を紹介してくれています。いくつか見て見ますと、例えば、ルターによれば、「信仰とは『純粋な祈り』にほかならない」。シュラエイアマッハーという近代神学の父と呼ばれた人は、「敬虔であることと祈ることとは、本来、同一の事柄である」と言います。つまり、信仰深い人とは祈る人のことだ、ということです。ローテというプロテスタントの神学者は、祈りは信じるものの心に宿る本質的な衝動なので、「祈らない者は宗教的には死んでいる」とさえ言います。フェヒナーという人は哲学者ですが、適切で印象的な祈りについてのコメントをしています。「祈りを世界から取り除いてみよ。それは人間と神との絆を引き裂いてしまうようなものであり、父を前にした子をしゃべれないようにしてしまう」。

 これらは100年前のドイツの研究者が拾い集めたコメントで、ハイラー自身を含めて、全体的に個人主義的な祈りの理解が主流になっていますが、「祈り」という行為を宗教全般に認めつつ、それを宗教の本質だとみなしている点で共通しています。宗教の本質は個人の心の内にある、として、宗教における祈りの分析をすすめるハイラーの方法は、私たちが理解しようとするキリスト教会の祈りに対するアプローチとは違いますが、祈りという現象が人類に普遍的なものであること、つまり、人間は誰でも心の内に祈りをもっているということを教えてくれます。ハイラーがこの本を書いた背景には、宗教は迷信であり、祈りは低い次元の人間精神の表れだと見なして、もはや祈らなくなってしまった時代の潮流があります。それはおそらく私たちの暮らす現代も同じです。そうした世界にあって祈りの普遍的な価値を見出そうとしているのがハイラーの仕事です。

 今ざっと見てきた言葉にもある通り、祈りはキリスト教の特権事項ではありませんけれども、日本にも種々の祈りについて紹介した本があります。『日本の名随筆』という有名なシリーズが作品社から出ていますが、その第86巻が『祈』です。その中に日本の作家や詩人、ジャーナリスト等総勢28人が「祈り」について記したエッセイが収められています。カトリックの信者であった遠藤周作さんのものもありますが、仏教、神道、インド、中国、様々な立場による、祈り、もしくは人間の宗教性についての興味深い考察が寄せられています。

 面白いのは児童文学者だった坪田譲治さんが記した「祈りの思い出」という文章です。「私は神の存在を信じない。しかし、私は祈りをするのである」と始まります。坪田さんは大学生の頃に洗礼を受けているのですけれども、「信じない」と本音を明かしてしまうところが文学者なんでしょうね。不思議なのはそういう人に洗礼を授けてしまう教会があることですが。坪田さんはこんな風に書いています。

 神がある-そんなことはどうしても考えられなかった。今も同じであるが、毎日曜、教会へ通い牧師や信者の祈祷の前に頭を下げ、また私自身さえ祈祷した五、六年の間にも、一度として、私は神の存在を確信したことはなかった。牧師その他の説教の中からも、神が存在するという確実な話を聞いたことはなかった。今の私は考えているのであるが、「牧師も信者も、彼等はみな神を求めているのである。或は神を信じようと熱心に祈っているのである」。私は幾人かの牧師、幾十人かの信者を知っている。然し、彼等の一人でもが、神の存在を、感覚によって知り得るものと同じように、確実に感得しているとはどうしても信じられない。彼等のセンチメンタルな祈祷を聞いていると、私の額には皺がより、頭は何かの圧迫を感じてくる。言ってしまえば「よくもこんな白々しいことが言えたものだ。」と思えてくるのである。

 実に正直な告白ですけれども、皆さんの中にもこういう風に感じた経験があるかもしれませんね。けれども、坪田さんは、「しかし、私は祈りをする」と言います。なぜかと言うと、このエッセイの終わりに書いているのですが、自分は生活が窮まって「神様どうか私に借金をさせてください」と祈ったことがある。それは、もう「全く仕方がなかった」と言います。つまり、八方塞がりでどうしようもなくなってしまったところで、自分はもう祈るよりほかはなかった。神は信じないのだけれども。それで、坪田さんが結論するのは、祈りなどはまったく勝手な話だと。宗教というものは人間の勝手な気持ちが作り出したものなんだ、ということで、自分の信仰は否定するわけです。

 ハイラーの時代のドイツにもこういう教養人たちが増えてきた。これはキリスト教会を取り巻く世界の状況で、日本にも同じような空気が広がりました。そんな知識人の一人に作家の大江健三郎さんがいます。大江さんは『人生の習慣(ハビット)』という本の中に、「信仰をもたないものの祈り」という題の、かつて東京女子大で行った講演を収めています。私が神学生の頃に出た本で、当時、いろんな教会の牧師が説教に取り上げていました。大江さんは洗礼さえ受けてはいないものの、坪田譲治よりもキリスト教については肯定的に捉えている人です。その講演の中で、大江さんは英米文学の例を幾つも引きながら、信仰は持たないのだけれどもそれに近い言葉を発している作家を紹介して、自分の立場を明らかにしようとしています。「私は信仰を持っていませんけれども、信仰ということに全く無関心であったということではないのです。それも子供の時にひとつの思い出がありまして、自分が苦しい経験をしたという気持ちを持っているのです」(8頁)と前置きして、大江さんにとって信仰とは、そして祈りとは何かということを語り始めます。

 9歳の時、その頃は戦争中で食べ物も十分ではなく、森の中で小麦を育てて母親と一緒に暮らしていたそうです。ある時、水車小屋で小麦を挽いて粉にしてもらっている間に、そこにある雑誌を手に取ると、アッシジのフランチェスコに関するエピソードが載っていました。『ジョバンニと牛』というお話です。「ジョバンニが牛を連れて歩いていると立派なお坊さまに会ったので、その人について行こうと思った。そのお坊様、すなわちアッシジのフランチェスコは、『じゃ、自分のところにいらっしゃい』といってくださりもした。『それには持っているものを全部捨てろ』ともいわれたので、ジョバンニは牛を捨てようとした。牛は売って、そのお金を貧しい人にわけてもらいたいと思った。ところが兄弟たちが、牛がなくなってしまう、お兄さんもいなくなる、と泣いたりわめいたりする。フランチェスコに相談すると、『君は自分のところへ来なさい。しかし牛は売らなくていい』ということになって、兄弟たちは喜んだ。」これを読んで、大江さんは自分にも魂の問題がある。「そして、魂について本当のことを何か教えてくれる人がいたら、自分はその人について行くだろうと思ったわけです。ついて行かなければいけない、と」(11頁)と語っています。そういう気持ちを持ちながら、悩みながら、信仰を持たないまま大人になった。その間、信仰は持たないでいても、「祈りのようなものを自分が持っていると感じる時が、人生のいろいろな局面であった」というのですね。「やはり信仰の光のようなものがあって、向こうからの光がこちらに届いたことがあると私は思っているのです。私はそれに答えることができなかったけれども、そのことはずっと覚えていようと思っている」(13頁)。その体験の一つが、障害を持って生まれた息子さんのことです。大江さんが28歳の時に息子さんの光君が生まれた。けれども、生まれる前から脳に障害があることが分かっていました。生まれた時に医者が、この子は手術をしないと死ぬ。けれども手術をしても重い障害が残ると言われたそうです。大江さんは非常に悩んだのだそうですけれども、友人の中には、もう手術はしないでそのまま死なせたほうがいいとアドヴァイスする人もあった。悩みながら毎日病院に通っているところで、ひと月ぐらい経ったある日、子どもを見ていた時に何かが自分の中に起こった。そして、この子供がこのまま死んでいくのだったら、自分は28年間生きて来た意味がない、と思ったのだそうです。どういう論理かは自分には未だにわからないのだけれども、ともかく、そう思ったので、手術をしてもらって、息子さんは生き延びることになりました。

 その後、大江さんはミルチャ・エリアーデという著名な宗教学者の書いた本の中に次のような言葉を見出します。「自分がここに生きているということ、存在したということは、誰も否定できない。それが人間の存在の破壊し得ないことindestructibility of human existenceというものがあるのだということがわかった。自分は病に苦しんで、もう長く生きないかもしれないけれども、この生きて苦しんでいたということは誰もそれを否定できない、それをなかったことにはできないと自分は思った」(17頁)。エリアーデはこれをエピファニーと呼んだ、こういう知恵が人間にあらわれる瞬間がある、と言います。「エピファニー」とは神が顕現されることです。そして、エリアーデがいう通り、大江さんが自分の子供は生きなければならない、そうでなければ自分の28年間の人生には意味がない、と思えたこともまさにそうであったというのです。大江さんはその後、光さんと向き合って生きて来た経験を多くの小説にしてノーベル賞作家になったわけですが、それはすべてエピファニー、人生のあちらから差し込んでくる光についての考察だったと言えるのかもしれません。

 で、結局、大江さんにとって祈りとは何かというと、自分は作家として、人間とは何かとか、社会とは何かとか、生きることとは何かということについて、こうだという確信を述べることができない、だから自分は信仰を持たないのだけれども、それらについて問い続ける仕事をしながら、心の中にはある方向付けがある。それが祈りなんだと言います。そこには、信仰を持っている人々の態度への強い関心があると言います。例えば、ジョージ・ケナンという米国の外交官としてならした人は、キリスト者として核兵器に反対する立場を明瞭にして、こんな風に語っています。「自分たちが、自分たちの目先の政治的な課題のために自然の構造を破壊してしまう、そういう核兵器の使用というものを行なってしまうならば、それは傲慢、瀆神、そして侮蔑だと思う。しかもそれは、怪物的なほど大きい規模の、神に向けられた侮蔑にほかならない」。大江さんはこれに対して次のようなコメントを加えています。「私はケナンのようなキリスト教徒ではありませんから、自分たちの神に対する侮蔑ということをいう資格はないでしょう。しかし私が考えることは、信仰を持たない人間にも神に対して侮蔑を働かないことはできるだろうということです。信仰を持っている人たちが信じていられる神に対して、『私は信仰を持っていませんけれども、しかしあなたの神様を侮蔑はしない、そのように自分をいましめて行動したい』ということはできるように思うのです」。これが大江さんのいう祈りの方向付け、ということです。そして、「宗教のある人間もない者も含めて世界中で一番大きな祈りは何かというと、私たちの後にも世界が続くようにということじゃないかと思う」と言います。

 では、宗教を持たない人間が何を根拠に祈るのかという点について、大江さんは最後に語って、広島の原爆病院で院長を務めておられた重藤文夫先生のことを挙げます。重藤先生は、「とにかくこのように苦しんでいる人間が身の周りにいる。そういう人を治療する必要がまずある」「ああいう人たちは自分たちの生命のために闘っている。自分たちもあの人たちとともに闘いたい」。そう言って、その通りの生涯を最後まで辿られた。そこに大江さんは根本的な励ましを受けたと言います。実際に、生命を守るための闘いを続けている人々が世界にいる。その運動をしながら声を挙げ、祈りをもっている。その祈りに自分も参加していたい、と大江さんは講演を締めくくります。

 私たちキリスト教徒が当たり前のように触れている教会の祈りの外側に、このような祈りの普遍的な広がりがあることをまずはお話ししておきます。そこから、では、私たちキリスト者の、そして日本キリスト改革派教会に属する私たちの祈りとは何かということを確かめたいと思います。

2.           聖書が教える祈り

 ハイラーの歴史的・宗教学的な分析にしても、文学者である大江健三郎の深い洞察にしても、私たちキリスト者に有益な知識を与えてくれますが、キリストの教会に生かされていると信じる私たちにとって、祈りを考える出発点は聖書以外ではありません。この世に生きる人間を観察する限り、宗教の出発点は人間の心より他はないように見えますが、聖書に教えられて始まるキリスト者の信仰は、この世で自然に始まったものではなくて、三位一体の神から始まります。この点が、先に紹介した先生方との際立った違いです。そこで、私たちは、まず聖書において祈りがどう示されているか概観したいと思います。そもそも「祈り」について聖書研究をするとなれば膨大な著作が必要となります。私自身、そのような研究に手をつけてはいませんので、ここで紹介するのはほんの序の口と考えてください。

(ア)旧約聖書における祈り

    祈りの開始

 先に祈りは人間に本質的なものだと言いましたけれども、聖書の記述に従えば、神に創造されたアダムとエバが祈った形跡はありません。エデンの園では、むしろ祈るまでもなく、直接的に神との対話ができる状態です。けれども、堕落して園を追放されてからはそういう関係が徐々に希薄になっていき、ゆくゆくは神の人、預言者的な人物だけが神との直接的な交信ができるように限定されます。

 そこで祈りの始まりを探ってみると、創世記4章26節に、兄のカインに殺されたアベルの代わりに神がセトという名の男の子をくださって、その子どもであるエノシュの時に人は「主の御名を呼び始めた」とあります。この「主の御名を呼ぶ」という行為は礼拝をさすのに違いありませんが、それを言葉通りに理解するのだとすれば、特に祈りを示唆するものと考えることができます。ただ、これは人々が個々に祈るようになったというのではなくて、祭壇が設えられた聖所での礼拝を指すものと思われます。例えば、創世記12章8節では、アブラムが主のための祭壇を築いて主の御名を呼んだ、とあり(13章4節も参照)、16章13節では、ベエル・ラハイ・ロイという聖所の由来として、ハガルが主の御名を呼んだことが思い起こされています。

 祭壇で犠牲をささげる礼拝と祈りとの関係にも興味深い点があります。後にエルサレムに神殿が出来ますとソロモン王が祭壇の前で大きな祈りをささげたり、エズラやネヘミヤが祈った、という記述が出て来ますけれども、モーセの律法、つまりモーセ五書にはイスラエルが礼拝において祈れと命じている箇所はありません。モーセが民のためにとりなしの祈りをささげるようなことは書いてあるのですけれども、民が祈るように定めた箇所はありません。ですから、イスラエルの聖所での礼拝は沈黙が支配する、と論じた学者もいるほどです。

 祈りの代わりに律法で命じられているのは、動物の犠牲をささげることです。主なる神に感謝をささげる場合、また、罪を告白して赦しを願う場合、イスラエルが神に近づく方法は犠牲をささげることでした。これは『レビ記』に詳細な規定がありますが、献げ物をもって礼拝する方法は、創世記4章のアベルから、また洪水後のノアの振る舞いなどから、最も古い礼拝方法だったと見ることができます。

 それと言葉によるささげものである祈りとの関係は確かではないのですけれども、ユダヤ教の教えの中には、動物犠牲によるささげものが、やがて祈りに代わったのだという説明があります。ヘブライ大学の教授で、イスラエル古代史を教えているエフアル・イスラエル教授は、ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)での礼拝が始まったのはバビロン捕囚からだとの通説を覆して、ヨシヤの宗教改革からとします(『列王記下』22-23章)。ヨシヤの改革は、神殿で発見された「契約の書」に従って、国内の宗教施設およびその制度を純粋な主への礼拝へと刷新することでしたが、その目玉の一つがエルサレム神殿に祭儀を集中させることでした(23章8節)。聖書をさらっと読んでいますと、そのところの現実的な意味合いがわかってきませんが、よくよく考えてみますと、これは大変な改革です。例えてみれば、聖餐式は今後、東京恩寵教会のみで受けることができる、と定めたようなものです。他教会の牧師はなんらかのしがらみで恩寵教会の副牧師になれるかもしれませんけれど、大抵みんな職を失いますよね。ヨシヤは信仰の純正化を図ってそのようにしたのですけれども、これを実施すれば国内の混乱は避けられません。それでヨシヤ王に加担したエレミヤは、地方聖所の同胞たちから憎まれもしたわけです。しかし、そうなったのであれば、もはや地方の古い聖所は廃止されて、みんな自分の町で動物犠牲をささげることはできなくなってしまった。毎週エルサレムへ通うなどは土台無理なことです。それで会堂が建てられることになる。そこに祭司はいませんし、犠牲をささげるのは禁じられていますから、聖書の朗読と祈りが礼拝の中心になる。こうして、犠牲が祈りに代わっていったと説明がなされます。そして神殿は紀元前6世紀にはバビロニアによって破壊されます。また、二度目に再建された神殿も紀元70年にローマによって破壊されます。そうしてついに、ユダヤ・イスラエルからは犠牲による礼拝は途絶えるのでして、ユダヤ・キリスト教での礼拝では、祈りが礼拝の中心的な座を占めることになります。

 これは歴史の推論に過ぎませんけれども、これが正しい洞察だとすれば、祈りは犠牲に取って代わった礼拝の方法だということです。つまり、祈りはイスラエルの民による言葉のささげものだ、ということになるでしょう。今日の教会では、祈りは神との対話だと簡単に行ってしまう傾向がありますが、ささげものとなると、もう少し祈る者の姿勢にも違いが出てくるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

とりなしの祈り

 さて、旧約聖書の祈りを、もう一つ別の観点から見てゆきたいと思います。それは、イスラエルの個人的な祈りに先立って、神の人または預言者によるとりなしの祈りがささげられることです。確かに、旧約聖書の記述には個人の私的な祈りがささげられている例があります。例えば、『創世記』24章には、アブラハムのもとから派遣された僕が、イサクの嫁取りのためにアラム地方の井戸の傍で、主人のために祈った祈りが記されています。そして祈るとその通りのことが実現してリベカが現れたという感動的な場面です。それから、25章21節には、妻の懐妊のために夫のイサクが祈って、それが実現したことが記されています。他にも、『サムエル記上』2章には、預言者サムエルの誕生に際して、苦しみの中で祈った母ハンナの祈りがあります。こうした個人の祈りは『詩編』の祈りと合わせて、間接的に個々の信徒が祈りの修練に向かうためのテキストとなりますが、それとは別に、民のために祈る預言者の務めがあって、それによれば、民衆は勝手に神に祈ることができない、もしくは、預言者の祈りには特別な力がある、ということが伺えます。

 『創世記』20章によれば、アブラハムもまた「預言者」だと言われます。アブラハムが自分の妻を妹だと偽ったために、サラを召し入れようとしたゲラルの王は神の裁きを告げられます。真相を知った王は直ちにアブラハムに抗議し、裁きが取り去られるよう祈ることを求めて、アブラハムは王のために祈って災いを遠ざけました。このように、ゲラルの王には、自分自身で災いを回避する手段がありませんでしたが、預言者であるアブラハムにはそれが可能でした。

 出エジプトの出来事では、モーセがそうした祈りの務めを果たします。イスラエルを解放しようとしないファラオの上に、神からの災いが次々と襲いかかります。激しい雹がエジプト全土に降り注いで作物に壊滅的な被害を与えた時、ファラオは神の遣いモーセを呼んで、主に祈るよう懇願しました(『出エジプト記』9章28節)。モーセがこれを聞き入れて主の祈ると、雷も雹も大雨もついに止みました(同、33節)。

 こうした事例は、預言者になにか超能力のようなものが備わっていたことを表してはいません。危機的な状況にある人々のために祈ってとりなしをするのは神が預言者に与えた務めです。ですから、神がお許しになるのでなければ、預言者が祈ってもなにも実現はしません。また、とりなしにおいて重要なのは、単に願いを叶えてあげることではなくて、罪を負った人や民の代わりに神の御前に進み出て、罪の赦しと罰の回避を願うことです(『旧約新約聖書大事典』教文館)。

 預言者といえば、神がイスラエルに遣わした僕(しもべ)のことです。この預言者が民の間にいることによって、イスラエルは神と言葉を交わすことができました。初めから誰でも自由に、というわけではなかった。それで、神がご自分の僕を選んで、モーセやダビデやエレミヤを任命して、言葉を語らせる。また、とりなしをさせたわけです。

 また、イスラエルの民は、エジプトでエジプト流の礼拝の仕方は知っていたでしょうけれども、主なる神に礼拝をささげる方法は知らなかった。けれども、シナイ山の麓で、モーセを通して律法を与えられて、そこから動物の犠牲をささげる方法を教えられて、それによって神との交信ができるようになった。そうでなければ、人間は神に近づくことはできないわけです。神が、預言者と律法を与えてくださったから、神との接触が可能になった。祈りもそうです。神がそれをお与えになるから、人間は祈ることが許される。それによって神と人間との結びつきが確保されます。つまり、祈りは神の恵みによる、ということです。

 とりなしの祈りについて、もう一つ加えておきます。それは、預言者や祭司によるとりなしが、後にはイスラエルの民の務めになった、ということです。エレミヤ書29章7節で、バビロンにいる捕囚民に対して主なる神がこう言っておられます。

 わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。

こうして、主なる神を知る民自身が、諸国民に対する預言者的な務めを負うようになるわけです。これが後のキリスト教会にも引き継がれます。

詩編における祈り

 旧約聖書の祈りについて集中的に学べるのは『詩編』です。そこには楽器の伴奏付きで歌われたものも含まれているようですけれども、全体を150編にまとめられたのは、祈祷集として用いられるためであったようです。『詩編』の内容は多様です。そこから、祈りに含まれるいくつかの要素を認めることが出来ます。「わたしをお救いください」「わたしの祈りを聞いてください」などは詩編によく見られる嘆願です。51編などはダビデが罪を犯した時の告白が中心になっています。「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」(5節)。それから、神の救いを確信して述べる言葉があります。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」、これは23編の有名な告白ですね。23編全体が主なる神に対する信仰告白だと言っていいでしょう。そして、祈りに欠かせないのは感謝です。「わたしは心を尽くして感謝し/神の御前でほめ歌をうたいます」。138編の冒頭にあるこの一句からは、「感謝する」ことと「賛美する」ことが同時に述べられています。これは、聖書の詩文に特徴的な並行法(パラレリズム)というもので、二つないし三つの同義語を重ねて、詩の文体を作りあげる方法です。『詩編』ばかりではなく、『箴言』や『ヨブ記』などの知恵文学や、預言書にある預言も同じ詩文で書かれています。「感謝する」と「賛美する」が並行している、ということは、それがほぼ同じ意味をもっていることを表しています。だから、神の素晴らしさをほめたたえて歌うことで感謝を表す。そうすると賛美もまた、感謝のささげものとなる、と言えます。

 こうした祈りの諸要素を詩編から学んで私たちは教会の祈りに生かすことができますし、また実際、活用してきたのですね。

 『詩編』に関してもう一つ述べておきますと、それは『詩編』にはカテキズム的な特徴があることです。つまり、ユダヤの人々も後の教会も『詩編』を用いて祈ったのですけれども、それは必ずしも個人的な動機で祈りに赴いたのではなくて、今悩んでいることがあるとか、特別に感謝なことが起こったとか、そういうのではなくて、『詩編』を祈ることで信仰について学んだのですね。『詩編』はダビデの祈りですから、聖書の祈りとなって、正しく神を礼拝する言葉がそこにある。それで、聖書の民はこれを繰り返し祈ることによって、イスラエルの信仰を保つことができた。実際、『詩編』を見ると、嘆願だとか賛美とかには収まらないカテゴリーのものもあります。例えば、最初の第1編がそうです。

 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。

こういうタイプの詩は、「知恵の詩編」と呼ばれています。信仰の道について説く教訓を歌にしたものです。旧約にあっては、民の霊的な指導を請け負ったのは預言者ですね。ですから、新約では『詩編』もまた預言書と呼ばれます。そうすると、私たちの祈りにも「学ぶ」という面が出てきます。『詩編』を祈ることによって、神のこと、信仰のことを学ぶわけです。この場合は、『詩編』を祈るのか歌うのか、という区別はあまり問題になりません。

(イ)新約聖書における祈り

 さて、キリスト教会における祈りは、旧約聖書で教えられた祈りを引き継ぎながら、イエス・キリストの光によって新しい展開を見せます。イエスもパウロもユダヤ人ですから、当時のユダヤ教でささげられていた祈りには習熟していたはずです。また、キリスト教へ改宗したユダヤ人たちから、そうした遺産はある程度、教会へももたらされていたと考えられます。けれども、祈りを知らない弟子たちに、全く新しい祈りとしてイエスが「主の祈り」を教えてくださったことによって、教会の祈りはユダヤ教とは別の道をゆくことになります。

新約の祈りの新しさ

 例えば、『マタイによる福音書』にある山上の説教の中で、イエスはこう弟子たちに教えておられます。

 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(5章43−44節)

敵に対する呪いは『詩編』にも何回も現れます。けれども、イエスは「敵を愛し、敵のために祈れ」と言います。これは、敵のために十字架におかかりになったイエスだから言えることです。その十字架を共に負う教会は、自分を迫害する者のためにもとりなしの祈りをささげる務めを負います。パウロも『テモテへの手紙一』の中で次のように言っています。

 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。(2章1節)

 それから、『フィリピの信徒への手紙』では、パウロが主イエスの教えを念頭に、次のような勧めをしています。

 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

「敵を愛する」という信仰の姿勢から導かれるのは、こうした祈りの姿勢だということでしょう。「何事につけ」とは些細なことであってもというより、たとえ思い煩いにとらわれていても、ということでしょう。『詩編』でしたら災いを遠ざけてくださいと祈るところが、「感謝しなさい」というわけです。これが可能になるのは、いつどのような状況にあっても、キリスト者はキリストの命の一つに結ばれていて、万事において勝利が約束されているから、いつも喜んでいることができる、という信仰があるからでしょう。

嘉納(聞き届け)

 そして、新約の祈りに特徴的なこととして、「嘉納」がある、と言います(旧約新約大事典)。「嘉納」とは、神が嘉してくださるということ。これももう普通は使われない表現だと思いますが、つまり、神が喜んで聞きあげてくださる、ということです。『マタイによる福音書』7章7節以下で、主イエスはこう言っておられます。

 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そ うすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。(7−11節)

ここには、天の父が祈りを必ず聞きあげてくださるというイエスの約束があります。だから、祈りがすぐには聞き入れてもらえないと思えるようなことがあっても、弟子たちは祈り続けるわけです。そういう祈りは、自分の願いが叶えられたかどうかではなくて、父の御心を願うものへと自分を変えます。十字架を前にして苦しんで祈られてイエスご自身がその実例です。『マルコによる福音書』14章36節、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。パウロも同じことを証しています。パウロは自分に与えられた病気が癒されるように3度も祈りました。しかし、与えられた答えはこうでした。

 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。(『コリントの信徒への手紙二』12章9節)

 初めに紹介したエッセイで、坪田譲治さんが、宗教は結局自分の願望を述べているのに過ぎない、と言いましたけれども、それはフォイエルバッハという哲学者が述べたことと同じですが、新約聖書から教えられる祈りとは、信仰とは、そういうものではないことがここで明らかです。人間の願望ではなくて、神の御心が成就するように、と自分を明け渡して、その願望を超えてゆくところに宗教があるわけです。

キリスト教の祈り

 そして、イエス・キリストによって新しくされたキリスト教会の祈りは、天の神を父と呼ぶ、その呼びかけにおいて他のどの宗教とも区別されます。私たちは他の人々と同じように神に祈り願うのですけれども、私たちの神は父であって私たちに必要はものはすべてご存知のお方です(マタイ6:32)。それを知るときに、私たちは天の父の子なのですから、敵のために祈らなければならないと諭されます。そして、イエスが教えてくださった通り、「何よりもまず、神の国と神の義を求める」ことの大切さを覚えて祈るようになります。

 こうして、新約の祈りからわかるのは、イエス・キリストによって私たちと神との間に新しい関係ができたことです。私たちはイエス・キリストの十字架に贖われて、神のものとなり、イエス・キリストに結ばれて、天の父の子となります。だから、私たちに求めらるのは祈りのための苦行ではなくて、絶えず祈ることによって、父の関係を確かにして、父が私を通してご自分の栄光を表してくださることにいつでも期待していることです。

(ウ)イエスの教える祈り

 新約の祈りは、主イエスが教えてくださった「主の祈り」に集約されますけれども、一言でその要点を言えば、「御心が行われますように」ですよね。イエス・キリストから始められた世の終わりの救いが完成しますように、というのがその主旨です。「主の祈り」については、ウェストミンスター信条で扱われていますから、次の講演で取り上げたいと思います。

 最後に、新約聖書の『マタイによる福音書』から、イエスが弟子たちに教えた祈りについて、直接見ることにしましょう。教理による要約を見る前に、聖書の本文から学んでおきたいと思います。箇所は6章5〜15節です。レジュメには抜き出してありませんので、どうぞ聖書を開いてください。

 祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

 キリスト者の信仰は、祈りにおいて最も顕著におもてに表れる、と言われます。学生の頃、一緒に聖書研究会に来ていた友人から、君たちは普段は普通の人と何も変わりがないように見えるけれども、祈りを聞いているとやはり信仰者だなあと思う、と言われたことがありました。少々複雑な思いもしましたが、私どもの祈る姿が周囲に対する良い証の機会になったことは確かなようです。また、これは教会の中ではよく聞かれる証ですけれども、キリスト者である母の祈る姿に支えられて、自分もいつしか洗礼を受けたいと思うようになった、という例もあります。最初に触れましたように、キリスト者の祈りは、信仰そのものの表れです。

 けれども、主イエスはそういう祈りについても、弟子たちに注意を促しておられます。この御言葉の置かれた段落は、人の善い行いについて語られているところです。そこで、施し、慈善の働きに続いて、祈りについて同じ注意が与えられます。5節にこうあります。

 祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。

人に見てもらおうとして祈る、見せかけの祈りという問題が指摘されています。祈りが信仰の表れと見られることは教会では周知のことですので、それを意識して人に見られるため、聞かれるための祈りをしてしまうということが起こり得ます。さらに、それが大胆にあからさまになりますと、「会堂や大通りの角に立って」ということにもなります。主イエスはいつも極端な言い方をしますが、ここは本当にイエスの周りにいたユダヤ人の中に、そういう見せかけの信心ぶる姿がおそらくあったのだと思います。祈りを重んじる宗教全般にも言えることではないかと思います。

 「偽善者」とは、もともと役者を意味する言葉です。ある役割を演じるわけです。善い行いをして善人を演じる。長い祈りをして聖人を演じる。そういうことが、人の信心には起こります。主イエスはそこで、「あなたがたは偽善者のようであってはならない」と言います。

 偽善は確かに嫌なものですから、「見せかけ」は誰でも嫌います。けれども、主イエスがここで仰っておられるのは、嘘が嫌いだというような問題ではなくて、救いに関する問題、神と人との真実な関係に関する問題です。つまり、「見せかけ」の信心には人を救う力がありません。

 人が信仰によって救われるのは、神から報いを頂くからです。それが、人からの報いを期待しているうちは適いません。人からではなく、神から報いを得るときに人は本当に救われます。

 しかし人の心は普段から人に向かっていますから、誰であれ、人からの評価を受けたいものだと思います。子供たちは大抵あからさまですが、両親や先生に褒められたくていろいろと良いことをしようとしますし、友達に認められたくて仕方がありません。それが大人になってもだいたいそのまま生きる姿勢になっているのではないかと思います。だから、キリスト教に入信しても、そういう身に付いた感覚から、人目を気にしたお祈りなどが出てきてしまいます。

 山上の説教での主イエスの言葉は、弟子たちに向けて語られたからかも知れませんが、だいぶ厳しい言葉です。誤った信仰をそのまま放ってはおかれません。それは、命に関わる重大なことだからでしょう。

 6節の具体的な勧めは、祈りの本質を述べています。ここでは「あなた」と一人ひとりに呼びかけています。私たちがそれぞれ自分のこととして受け止めるようにとの促しです。

  だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。

「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」る。つまり人が見ている前でというのとは反対に、独りきりになって祈る。戸を閉めるのですから念入りです。つまり祈りは、神と一対一に向き合うことで成り立ちます。『祈りの力』という米国映画が一頃評判になりましたが、原題は「ウォー・ルーム」でした。祈りのための戦いの部屋、ということで、主人公はその部屋に篭って祈りの修練を経て困難に立ち向かいました。うちにはそんな一人きりなれるような場所はないから無理、というようなことではなくて、本質的にそれは心の問題です。礼拝で祈りをささげる時も同じです。人に願うのではなくて、神を相手に語る。当たり前かも知れませんが、主イエスがあえてそう言うのは、案外、当たり前でなくなってしまうからでしょう。信仰生活を続けている人にはよく分かることだと思います。

 そこで、どんな風に祈りに誤りが入ってくるのか。教会でなされる祈りを中心にして、注解者たちが様々な適用をしています。皆、言っていることは大体同じです。

 例えば、信仰を見せるための祈りをすることがある。主イエスが事例を挙げられましたような、人前で見せびらかす程の事はなくとも、自分はちゃんとした信仰者ですということを周囲に知らせようなどと思ってしまうことがある。それは、人に向けて喋っているであって、神の方を向いていないわけですから、本当の意味での祈りにはなりません。特に求道者の方など、慣れていない方は周りにどう聞かれるかというストレスをずいぶん抱えながら、集会での祈りに加わってきます。慣れていただく他はありませんが、普段から祈ることを心がけていないと、何年たっても人目を気にした祈りからは逃れられないのも事実です。また、教会生活に慣れて来ますとマンネリズムが生じますから、自分の祈りが神に向かっているか、人に向かっているのか、よく心の中を吟味することが大切です。

初めに例を挙げましたように、祈りを聞いていれば、その人の信仰が分かる、と言われますが、必ずしもそうではないと思います。祈りの言葉に慣れることと、心が真実に神のみに向かうということは同じではないからです。本当に心が神に向かっているかどうか、知っているのは自分だけです。

そして、説教の要約としての祈り、というのがあります。教会ではよく献金の感謝の祈りをささげるときに、そういう祈りがなされたりもします。これも、よくよく考えてみますと、自分自身や会衆に向けて語りかけられている場合が殆どではないでしょうか。神と一対一に向き合って、説教をまとめて述べなくてもよいはずです。語り方に注意してみますと、確かに、願いや感謝を神に語りかけているのではなくて、物事を叙述する文が主体となります。祈りは対話で、それによって関係が作られるとしますと、相手が聞いていようといまいと一方的に喋るだけでは、対話にはなりません。

次に、それとよく似ていますが、これは深刻な問題です。祈りを装った説教。誰かを批判する祈りがあります。一緒に祈りながら、その中で誰かを更生させようと試みるようなことです。これについては注解者がこんな風に述べています。

そういう祈り方は、「あなたは間違っている」と面と向かってその人の言うことを避けるための悪意ある方法である。そうした場合の祈りは、人の間に本来成り立つはずのコミュニケーションを阻害する。祈りを批判の手段にするものは、罪を指摘する自分を相手に晒さなければならない信仰の誠実さを示す機会を失う。これは教会の交わりにおいては特に注意したいところです。牧師の牧会の仕方にも同じような適切な配慮が必要です。

 私の祈りが真実に神に向かうものであるのかどうか。私が祈っているのは、真に生きておられる神なのかどうか。そこに祈りが祈りとして成り立つ鍵があります。これは私たちの信仰の本質に関わることで、私たちは祈ることで、今私と共に生きておられる神を確認するのですから、これは信仰にとって、つまりそれは、私たちの命にとっての死活問題です。

 そして、7節と8節で、また9節以降の「主の祈り」を通して、私たちはもう一つ祈りに関する重要なことを知らされています。それは、どのような神に私たちは祈るのか、ということです。具体的な勧めが先にあります。

また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。

言葉数の多い、饒舌な祈りは必要ありません。この背景には、「異邦人は」とありますように、他の宗教の様々な事例があったはずです。はっきりは分かりませんが、例えば神に呼びかけるときに、50回も100回も違う仕方で神の名を呼ばわるとか、ぶつぶつと呟くような呪文を述べて神に願いをささげるとか、そういう祈りの形式が、ギリシャでもオリエントでも知られています。これも、本当に神に向かって祈っているのか、と問われそうですが、もとより、神についての知識が違います。

 言葉数がやたらと多いのは、そう呼びかけなければ神が振り向いてくれないからかも知れません。そして、いろいろと述べ立てなくては、神に自分のことを分かってもらえない。つまり、神は私のことをご存じない。

 それから、同じ言葉を繰り返し繰り返し祈ったり、ぶつぶつ延々と呟いたりする祈りは古代世界から現代まで続く呪術・魔術の特徴ですが、これは言葉で神を動かそうとする試みです。つまり、人間が働きかけなければ神は行動しない。或いは、人間が神をコントロールすることができる、ということになる。

 聖書の神はそういう方ではありません。特に、主イエスがここで繰り返し私たちに教えておられるのは、私たちは「父に」祈るということです。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」「あなたの父が報いて下さる」。そして、主の祈りにおいても、始めに、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかける。私たちは、わけのわからない神通力をもった神のようなものに呼びかけるのではなくて、主イエス・キリストが父と呼ぶ、天の神に向かって、主イエスと一緒になって、父に願います。そして、祈りの前提として重要なことが、8節の後半に書いてあります。

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

神に向かって丁寧に私の願いを教えてあげる必要はありません。「わたしたちの父」は、子である私たちのことは何でもご存知です。人間の親でしたらそうはいきませんが、神だから真実にそう述べることができる。父なる神は、私たちが自分のことを知る以上に、私たちの心の底までご存じで、配慮を尽くしておられる。そういう神に向かって、父に向かって、私たちはどう祈るのか。どう語りかけたらよいのか。これが、祈る姿勢の基本となります。

 そこで、一つ問題が起こります。では、何でもご存じの神に向かって、そもそも祈る必要があるのかどうか。神はすべてを始めからご存じで、神が計画されたことだけがこの世においては実現する。すべてのことは神の御旨に従って、私たちの周りに起こってくる。摂理の信仰ですね。そうしますと、祈る必要などもうないのではないか。何もしなくても神が先に行動されているのではないか、という疑問が起こります。

 主イエスは、しかし、祈るなとは言われませんでした。くどい祈りは必要ないと言われましたが、実に簡潔な祈りとして、9節から13節にあるような、祈りの手本となる主の祈りをお与えになっています。

 祈りは私たちのために主がくださったものです。私たちは、神の恵みを受け取るために、祈ることができるようにしていただきました。それは、必要があってとか、目的があってではなくて、祈ることとは、神との交わりそのもの、信仰そのもののかたちです。祈る内容は、ウェストミンスター小教理問答が聖書に従って要約するところによれば、罪の告白と感謝と願いになりますが、どれも最も親密な心と心の結びつきの中で、しかも自由な言葉で、父なる神へ語りかけます。

 ですから、祈ることによって、どんな風に私たちが導かれるか分かります。祈ることで私たちは神の近さを知ります。神は既に行動されました。私たちが願う前に、神は既に行動されて、キリストの十字架と復活の御業により、私たちに死の恐怖から解放された新しい命を準備されました。罪から逃れられずにいる私たちが、神と共に生きるための絆を回復されました。神はもう近くにいて下さる。それが、祈りによって確かめられます。祈りは神と心で向き合うことですから。

 私たちは祈ることによって、父である神と毎日を過ごします。誰にも悩みを相談できないで苦しむときに、聞いて下さる方があります。大江健三郎さんの『信仰のないものの祈り』とは違って、キリスト者の祈りはもっと具体的です。相手が分からずに祈る求道心ではなくして、主イエスがもっておられた特別な親しさ、完全な信頼、明け渡し、愛をもって、いつも側におられた父へ率直に打ち明け、願いを述べるのがキリスト者の祈りです。その方に話を聞いていただいているという慰めがあります。

また、良いことに生きたい。悪に傷ついて自堕落になっていくのではなくて、誰にも知らされずとも、善いことで誰かの役に立ちたい。神が作られた人間本来の善さを人生の中で味わいたい。そういう思いを率直に父である神に願って、応えを期待することができます。それを、ことさら人に見せるつもりはなくても、祈っている日常を通してそれが証にもなる。そういう様々な恵みが、祈りの実りです。

 報いということが述べられていて、人からではなく、神から報いを期待するように求められます。けれども、報酬がすべてではなくて、祈ることそのものが報いです。祈ることで結ばれた父なる神が私たち祈る者への報いになっている。さらに、終末の報いがある。この世で人から受ける報酬ではなくて、最後の最後に復活の命を頂くという終末の報いが約束されている。信仰そのものである祈りが私たちに生じるときに、私たちは真に救われた者です。それが祈りを通じて分かります。

 読みませんでしたが、16節以下には断食に関する教えが加えられています。施し、祈りに続いて、断食が一連の礼拝的な行為に挙げられます。その心は一つ、心の伴わない形式化した礼拝行為には意味がないということです。宗教改革者たちは断食には否定的で、カルヴァンも、断食はあってもなくてもどちらでもよいと述べています。ただ、個人的に祈りの修練の為とか、精神的・肉体的鍛錬には役立つと評価しています。主イエスもここで、断食そのもの否定しているのではなく、見せかけにならないようにと、やはりそれを行う者の信仰を問うています。

 キリストが私たちの一人となってくださって可能になった、父と子の関係の中で、私たちは真に赦されて、受け入れられた存在です。祈りの中で、私たちは今生きておられる神に触れて、見せかけではない自由なキリスト者である私として生かされます。活き活きとした祈りの生活が私たちの内に実りますよう聖霊に願いましょう。

祈り

天の父なる御神、あなたは生きて働いておられるのに、私たちは自分のことばかりをあなたに申し立てます。それでも、聞いて下さるあなたの慈愛に心から信頼します。主イエスの尊い十字架の御業によって、あなたの子として祈ることが許され、またあなたの赦しを受け取ることのできる特別な恵みを心から感謝します。どうか、偽りを捨て、真の祈りに生きるものとなさせて下さい。本当の祈りの交わりの中で、聖霊なる神の息吹を感じ取らせて下さい。苦しみに遭った時、傷つき、冷え切った私たちの心に、あなたの憐れみを満たしてください。そして、十字架を負って先を行かれた主イエスの後をたどらせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


 

講演Ⅱ信仰告白に学ぶ祈り

 この第2講演では、改革派教会の信条に規定された「祈り」について学びたいと思います。全体的に大雑把ではありますが、議論の道筋をどうぞ理解してください。私たちは、教会の信仰の事柄を学ぶ道筋は人間を出発点にしません。聖書に始まり、歴史を通して、つまり教会の信仰告白を通って、そして現在の状況における考察へと至ります。この筋道を通さないで議論しても唯我独尊になるか教会を混乱させるばかりです。そこで、今回は『ウェストミンスター大教理問答』をテキストとします。「カルヴァンの祈祷論」だとか、「ハイデルベルク信仰問答」も十分参照するに値しますが、それらは直接私たちの教会憲法ではありませんし、正直なところ、今回そこまで手が回りませんでした。『大教理』を選ぶのは、他の『信仰告白』や『小教理』よりも詳細であるからです。この『ウェストミンスター大教理問答』には、ヨハネス・G・ヴォスの解説本が玉木先生の翻訳で聖恵から出されています。もう絶版ですが、皆さんの教会には備えがあるはずです。それを自分で学んでもらえればそれでいいのですが、こういう機会ですから、今日は一緒に学ぶことにしたいと思います。それで、皆さんの質問には殆ど答えることができるのではないかと思います。

祈りとは何か(問178)

問178 祈りとは何であるか。

答 祈りとは、わたしたちの願いを神に、キリストのみ名において、そのみたまの助けにより、わたしたちの罪のざんげと、神のあわれみへの感謝に満ちた告白と共に、ささげることである。

 まず、ここに私たち日本キリスト改革派教会が捉えるところの祈りの定義があります。小教理問答もほぼ同じ文言ですが、若干異なるので比べてみましょう。

98 祈りとは何であるか。

答 祈りとは、キリストの御名において、神のみこころにかなうことのために、私たちの罪のざんげと、神のあわれみへの感謝に満ちた告白とともに、私たちの願いを神にささげることである。

「神のみこころにかなうことのために」という一句が挿入されて、こちらの方がより包括的だと言えるかもしれません。祈りとは願いをささげることである。それに合わせて罪の懺悔、または罪の告白と、神の憐れみへの感謝を含める。祈りに含まれる要素については、『礼拝指針』ではもっと豊富に「賛美、感謝、悔い改めと罪の告白、赦しの約束、祈願、執り成し、献身」と挙げられていますが、教理問答はそれらを排除しているわけではないと思います。中心的な項目をあげて、罪の告白と感謝としています。こうして、聖書の祈りを大変コンパクトにまとめているのが教理問答による定義です。そして、これがキリスト教の祈りなのであって、人間の宗教心に合わせた祈りの理解の仕方とは違うのはおわかりでしょう。先の講演で学びましたように、私たちは聖書を通して神に教えられて、恵みによって祈ります。

誰に向かって祈るのか(問179)

問179 わたしたちは、神のみに祈らなければならないか。

答 神のみが、すべての人の心を探り知り、求めを聞き、罪を許し、また願いをかなえることができるし、神のみが、信じ、宗教的礼拝をもって礼拝すべき方であるから、その特別な要素である祈りは、すべての人によって神にのみなされ、神以外の何者にもなされてはならない

 私たちの祈りは私たちの信じる三位一体の神にささげられます。これは当たり前のことのようですが、この問答で想定されている神以外のものとは、カトリック教会で信仰の対象となっている聖母マリアや守護天使や聖人たちのことです。私たちはこうした聖なる存在に祈りをささげることはしません。なぜなら、私たちは、誰でも直接にキリストに近づくことができるからです。その間に、さらにマリアでもなんでも他のものが入り込む余地はありません。私たちと天の父なる神との間をとりもつ中保者はイエス・キリストだけである-これが、宗教改革によって目覚めたプロテスタント教会の福音理解ですから、祈りに関するこの点は重要です。

 これを弁えた上で、私たちは父なる神に祈るのか、キリストに祈るのか、聖霊に祈るのか、と、質問される方が時々あります。イエスの教えにもありますように、私たちは祈る時に、「アッバ、父よ」とイエスと共に祈るわけですから、父なる神に祈ります。けれども、三位一体の神は、思いを一つにしていますから、私たちは「神さま」と祈りながら、三位一体の神に祈っていると理解してよろしいのではないかと思います。ただ、事柄によっては、キリストに祈ることも、聖霊に祈ることもあります。例えば、聖書を読む時に聖霊の助けを求めて祈ります。それは、聖霊が私たちの心に働いて、聖書の言葉を神の言葉と信じさせてくださることを願っての祈りです。これは聖霊に願って祈る祈りです。

 問答の文言でもう一つ気になるのは、「すべての人によって」真の神にのみ祈りがささげられなければならないとあるところです。これはキリスト者すべて、ではなくて、人類のすべてです。世界には様々な宗教があって、それぞれの神に祈りがささげられいることでしょうが、それは本来ならば、万物の創造者であり、聖書を通して自らを現しておられる、真の神にのみささげられねばならないものだ、と言っているわけです。聖書には、詩編や預言書の中に、諸国民に対する審判や呼びかけが多く含まれています。それは、神は選びの民イスラエルだけに関心を払っているわけではないことを知らせています。神の配慮は世界全体のすべての民族に及びます。そこで選ばれた民がいるということは、その選ばれた者たちにすべての人々に真の神の素晴らしさを伝える宣教の役割が与えられていることを意味します。神社で柏手を打ったり、お寺さんで手を合わせたり、お地蔵さんに頭を下げる人々の信心に、人間の謙遜な姿をみて、心打たれるかもしれません。確かに、この罪に堕落した世界にあって、宗教一般が果たしている役割は小さくないと思いますけれども、そこでささげられている祈りは、当て所のない祈りで、行方を探してふらふらさまよっているわけです。大江健三郎さんの率直な物言いからしても、一歩手前で踏み込むのをためらって、祈りを心の内に封じ込めるしかないままでいます。しかし、聖書の神は、すべての人に向かって、私にのみ祈れと言っている。

キリストの御名によって祈る(問180・181)

 そして、罪ある人間は、キリストを通さないでは、神に祈りを届けることができません。罪を犯した人間は、天の神との間に断絶を作ってしまいました。天の神と人間との間には深い淵が横たわっていて、人は自分でそれを越えてゆくことができません。だから、人間が祈るためにはキリストの中保が欠かせません。問180と181へ進みます。

問180 キリストのみ名において祈るとは、何であるか。

答 キリストのみ名において祈るとは、その命令に服従し、またその約束に信頼してキリストのゆえにあわれみを願い求めることである。無意味にそのみ名をあげることによってではなく、祈るための励ましと、祈りにおける大胆さ・力・聞き入れられる望みとを、キリストとその仲保から引き出すことによってである。

問181 なぜ、わたしたちはキリストのみ名において祈らなければならないか。

答 人間の有罪性、またそれゆえに人間の神との距離は、わたしたちが仲保者なしに神のみ前に近づくことができないほど大きく、またその光栄あるわざに任命され、あるいは適当な者は、キリストひとりの外、天にも地にもだれもないから、わたしたちは、ただキリストのみ名以外のどのような名においても祈ってはならない

「私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」と言って、私たちは祈りを締めくくります。未信者の方にとってはこれが不思議な呪文のように聞こえるようです。特に、祈祷会などで、「アーメン」というところで、どうして皆が一斉に唱和できるのかといって驚かれます。また、求道中の方などは、この最後の文句を言わないで祈りを締めくくってしまったりします。「今晩の食事に感謝します。アーメン」みたいに。その文句を言うか言わないかはともかく、その意味するところは決定的に重要です。私たちの祈りは、キリストの十字架に担われて、神のもとへ届くものとなります。キリストなしには、単なるつぶやきで終わります。キリストによって罪が赦されたと信じている者は、キリストに結ばれた主の僕であり、神の子として父なる神の特別な愛顧を受けています。だから、イエスのように、神を父と呼んで大胆に、祈りをささげることができます。「イエスさま、イエスさま、イエスさま」と3回呼んでも、祈りに答えがあるわけではありません。イエス・キリストの教えに従って毎日を生き、祈りは必ず聞かれるとのイエスの言葉に信頼している人の祈りが、イエス・キリストご自身の祈りと同じと見なされて、聞き届けられます。また、先に触れましたように、マリア様の名によっても、大天使ミカエルの名によっても、聖テレーズの名によっても、祈りは神に届きません。それらの者たちには私たちと神との間をとりなす力はないからです。

聖霊の助けによって祈る(問182)

 そして、さらに重要なのは、祈りにおける聖霊の働きです。問182へ進みます。

問182 どのようにしてみたまは、わたしたちが祈るのを助けられるのか。

答 わたしたちは、何を祈るべきかを知らないから、みたまは、だれのために、何を、どのように祈らなければならないかを、わたしたちに悟らせることにより、また祈りの義務を正しく果たすのに必要な理解・愛情・美徳を、(すべての人にではなく、いつでも同じ度合いにでもないが)わたしたちの心のうちに起こし、活気づけることによって、わたしたちの弱さを助けられる。

 イエス・キリストは、神と私たちを結ぶ唯一の決定的な橋渡しなのですけれども、そうして神に祈るための資格を得た私たちが、実際に祈りへと突き動かされるのは聖霊の働きによります。弟子たちがイエスのもとへやってきて、「私たちにも祈ることを教えてください」と願ったのは、彼らがそれを知らなかったからですよね。そこでイエスは「主の祈り」を教えてくださったのだけれども、それから本当に祈ることができるようになるのは、聖霊が与えられてからです。使徒たちが、イエス・キリストの十字架の意味と復活の事実とを信じて、イエスの教えを理解して教会を建てあげたのは、聖霊降臨の出来事に続いてです。聖霊が、聖書の真実を悟らせてくださった。主イエスが復活して今も天で生きておられることを信じることができるようになった。その主イエスが自分たちと共にいて、愛の宣教を可能にしてくれた。実に信仰は神の賜物であって、全能者である神のご計画に基づいて、世界に働きかけた神の恵みの業の結果である。だから、信じる者たちは、神の恵みによって、祈ることができるようになった。

 今回、私たちは祈りについて学びたいと思ってここに集っているのだけれども、聖霊が私たちの内に働く時に、私たちはそこから祈ることができるようになります。聖霊がすべてを教えてくれるとは、心の中にこうせよと声が響くとか、ふわっと思い浮かぶとは、そういうことではありません。聖書があります。そこで、祈りについて私たちは学ぶことができます。イエスは主の祈りを教えてくださっています。そうしたことから、祈りがわかるようになる、ということです。逆に言えば、いくら聖書を読んでも聖霊が働かない内はなにもわからない。聖書とはそういう書物です。

 自分の話をするのは恐縮ですが、私が信仰告白をしたのは高校一年生の時でした。ある時、長老から、もうそろそろ信仰告白をしてよいのではないかと声をかけられて、それを断る理由もなくて、受けることにしました。一緒に受けた仲間が他に二人ありました。しかし、その後で悩み始めました。本当に自分はイエス・キリストの救いを信じているのか。知識としては子どもの頃から教会で育っているわけだから大抵のことは知っている。ウェストミンスター小教理問答も学んでいる。でも、信じる者の喜びとか、感謝とか、悔い改めとか、聖書に書いてあることは本当のところよくわからなかった。イエスが復活なさったのも、神なんだから当然だろうぐらいの理解だった。そこで、私は祈り始めました。「私の信仰が本物になるように」と。高校生の頃から中会の修養会には出ていました。大学生の頃にはCSの教師になりました。その間、クラブ活動より礼拝を優先させることは当然の義務として、礼拝を休むことは殆どありませんでした。けれども「霊に満たされる」という感覚はどうにもわかりませんでした。祈りも日ごとの義務でしたし、人前で祈ることもだんだん慣れてきました。

 ところが、そのように祈り始めて七年目に、信仰に目覚める時がやってきました。古川第一郎先生が、青年会のクリスマス集会でヨハネ福音書から説教をしてくれました。それは、十字架にかかるために天から降ってきた神の御子の話でした。その言葉がずっと心に残って、ある時、私は自分がキリストを十字架につけた側の人間だったことをはっきりと悟りました。キリストの十字架に向かって石を投げようとしていた夢を見ました。教会の子である、契約の子であるなどとは嘘っぱちであった。そういう自分に気がついて愕然としているところで、十字架のイエスと目が合いました。そして、イエスはそういう私を許してくれたのだ、愛してくれたのだ、ということが分かりました。23歳の春でした。

 それから、通学途中の電車の中で、ヨハネの福音書を読み始めました。吸い込まれるように読み続けました。それまで分からなかった、悔い改めや感謝、喜びと言った、聖書の言葉がすべて分かるようになりました。イエス・キリストによる救いが、そして何よりも尊いものだとわかるようになって、自分はいつか伝道者になりたいと思うようになりました。

 こういう回心の体験について、後々、私は冷静に分析するようになって、その心理学的な動機や作用は何かと考えたこともあります。けれども、聖霊に関する教理を通して聖書が語っていることが、もっとも相応しいと思うようになりました。もちろん、今でもそう思っています。私と同じような体験をしている仲間が身近にもありましたから余計です。聖霊が働く時、私たちは聖書の言葉に喜びを見出します。これは自分のことだと、様々な御言葉に出会うようになります。そうなると祈ることがわからないとか、面倒くさいとか、そういう思いとは離れてゆきます。問答に、「すべての人にではなく、いつでも同じ度合いにでもないが」と括弧付きで書かれているところにある通り、聖霊の働きは、神の主導権のもとにある働きですから、機械的ではありません。私たち一人一人に対する個別の神の働きかけです。ですから、自分を模範にして同じようにすればそうなる、という話はできません。けれども、私たちに祈る仕方を教え、祈りへと突き動かし、祈る意欲へと押し出してくれるのは、聖霊をおいて他にありません。ルカ福音書で「主の祈り」を教えられた後、イエスは弟子たちに「父は聖霊をお与えくださる」と約束されました。

 問答の答えの中に、「祈りの義務を正しく果たすのに必要な理解・愛情・美徳」を聖霊が教えてくれるとありますが、「理解」「愛情」はよろしいと思いますが「美徳」が分かりづらいようにも思います。解説を記しているヴォス先生は、これは、「謙遜、自己否定、神の約束への信頼、祈り続けるための不屈の心」だと言います。こうしたものは、本来的に人間に備わっているものではなくて、聖霊が私たちに与えてくれる神の恵みです。

誰のために祈るのか(問183)

 そこで、聖霊によって知らさせる祈りの方法ですが、誰のために、何を、どう祈るのか、ということを問答は続けて記します。

問183 だれのために、わたしたちは祈らなければならないか。

答 地上にあるキリストの全教会のために、為政者と教役者とのために、自分自身、兄弟、それだけでなく敵のためにも、また今生きている、または今後生まれてくるすべての種類の人々のために、わたしたちは祈らなければならない。しかし、死者のためや、死に至る罪を犯したことが分かっている人々のためには、祈ってはならない

 自分ではない誰かのために祈る祈りは「とりなしの祈り」と言いますが、これは第一講演で聖書の祈りの特質だとお話ししました。旧約では、預言者・祭司・王が民のためにとりなしをし、イスラエルの民に諸国民のためのとりなしが命じられました。そして、新約では、イエス・キリストと聖霊が教会のためのとりなしをし、教会が世界のためにとりなしをする祈りが示されます。私たちは改革派教会だからといって、狭い教派の中のことばかりを祈るのではありません。すべてのキリスト教会を通じて全世界に働きかけておられるキリストの救いの御業を覚えて、神の栄光のために祈ります。「為政者と教役者のために」とは、「国家と教会のために」と言い換えることができます。たとえ今どんな異教的な文化や歴史が一つの国家をつくっていようとも、国家と教会のかしらはイエス・キリストです。ですから、国家のために働く者たちや教会のために働く牧師たちが、正しく神の御旨を行うようにと祈る務めが教会には与えられています。

 敵のために祈る-これは、復讐心にたぎったこの世界では最も困難な課題かもしれません。もちろん、これは敵の幸福のために祈る、ということです。理由は難しくないと思います。神はご自身が作ったすべての被造物の神です。ですから、地上で人間がどのような醜い争いをしていようとも、すべては神の憐れみの対象です。その神の御旨に同期しながら教会も祈る、ということです。解説が興味深いコメントをしています。聖書は敵対心を持つなとは行っていない。敵を愛せよと言う。人間は罪深いので、心の内に生じる敵対心から逃れることはできない。けれども、キリストと共に敵のために祈るのである。

 さらに、「今後生まれてくるすべての種類の人々のために」祈らねばならない。未来への祈りですね。祈りは自己中心になりがちです。けれども、終末へ向かう神のご計画と御業を思って、私たちの子孫について、そして、世界の未来について思いめぐらして、神の国の進展を祈らねばならない。こういう祈りをささげているのであれば、私たちは「今だけ」を消費する時代の流れに流されないでいることができるのではないでしょうか。

 そして、ここには「祈ってはならない」項目についても知らされます。まず、「死んだ者たち」のために祈ることは禁じられます。聖書にはそのような祈りはない、ということです。死んだ者たちは、すでに神の裁きのもとにあって、それはどのような人間の手によっても覆すことはできません。イエスの「ラザロと金持ち」の譬にあるように、福音がすでに地上に届けられているのですから、罪の赦しは生きている内に確保する他はありません。確かに、私たちの周りには未信者の親しい者たちがあって、その人たちが悪人ではないことを知っています。けれども、彼らが神に選ばれた人であったかどうかは、神にしか分かりません。ですから、葬儀の時には、牧師はそうした人の救いについては述べることができません。ただ、キリストを信じる私たちの心の思いをすべて知っていてくださる神にお委ねする他はありません。

 「死者のための祈り」についてのこうした規定は、カトリック教会との違いを明確にしています。カトリック教会には、「煉獄」の教えがあります。もちろん、聖書にはないのですけれども、罪を犯した人間が死んだ後に、一時留保される場所です。そこは、いわば地獄の一歩手前ですから、まだ、救われる余地があるわけです。死んでしまいましたから、自分で救われることはもはやできません。けれども、家族や友人などが、その手助けをすることができます。功徳を積んだ聖人に頼んだり、教会に多額の献金をするなど残された人の善行で、その人を贖うことが出来ます。人情からすると、とてもありがたい面もありますが、贖いの代行者はキリスト以外にはおられないとする聖書の理解からははずれてしまいます。だから、カトリックでは死者のための祈りが成り立ちますが、私たちの信仰からすると、それはありません。

 問題は、もう一つの方です。「死に至る罪を犯したことが分かっている人々のためには、祈ってはならない」。「死に至る罪」とは、この世の刑法の下で死刑を宣告された罪のことではないのは明らかです。聖書では「聖霊を汚す罪は許されない」と言われています。つまり、唯一の救いの道であるイエス・キリストによる贖いと、その救いの恵みを各個人に適用する聖霊の働きを否定してしまえば、もはや救われる余地はない、ということです。聖書で言えば、例えば、イエスを裏切ったユダのことが思い起こされますが、彼はイエスを信じきれなかったからこそ、裏切ったわけです。そして、罪のない人を金で売ったことを間違いだと悟ったのですけれども、それでペトロのように赦しを乞うて信仰に立ち返ったのではなくて、首を吊って死にました。こう言う人のために私たちは祈る手立てがない。ただ、ここは聖書的にさらに考える余地があるかもしれません。イスラエルが偶像崇拝に走って神の言葉を聞かなくなった時、預言者は神から「祈るな」ととりなしを禁じられました。それは、神の裁きが決定しているからで、もはや、人の介入を許さないということでしょう。それで実際、裁きが下って、多くのイスラエル人が戦争によって死ぬことになるのですが、神はイスラエルを本当に見捨てたのではなくて、結局は赦すわけです。もうお前は私の民ではない、と断言して、見捨てるのですけれども、そんなことはできっこないといって、心を翻して前言を撤回するのですね。ですから、神の裁きの厳しさを示すためには、預言者が祈ることを禁じることもするのですけれども、それは永遠の絶対の決定ではないわけです。むしろ、その後に、残りの者たちが立ち返るための威嚇であったりする。そうすると、「祈らない」というのは、悔い改めを求めるための積極的な定時の仕方となりますね。単に、祈っても無駄だ、というのではなくて。そういう意味でしたら、教理問答がこれを記す意味もわかってきますが、解説にはそう言う類のことはありませんでした。もはや悔い改めが不可能なほど神に敵対している人物を、私たちが自分の目で勝手に判断することは可能ですが、それが正しいかどうかを見極めるのは難しいと思います。ですから、先日死刑にされたオウム真理教のメンバーが救われるために、教会は祈ってよいのかどうか、という具体的な問題にすると、祈ることはできるのではないかとも思われます。ただ、祈ったならば、そのとりなしに値するアクションがないと、無責任な祈りにもなりそうです。実際に、キリストの福音に触れる機会もないまま、救われるようにとは言えませんから、手紙を書くなりなんなりのフォローをし続けるなかでの祈りにならないと、祈りの真実味がないように思います。

何を祈るのか(問184)

問184 どのような事柄を、わたしたちは祈らなければならないか。

答 わたしたちは、神の栄光、教会の福祉、自分自身と他人との幸福に役立つすべての事柄を祈らなければならない。しかし非合法なことは何も祈ってはならない

 さて、私たちは何を祈るべきなのか。これについて、大教理問答は、神のため、教会のため、すべての人の幸福のため、と簡潔に答えています。祈りには多様な要素があると言いましたが、ここでは、定義にしたがって、祈りは願い求めである、というところから回答がなされています。しかし、この順序が大切になるでしょう。神の栄光のために祈るとは、神の御旨こそが第一に果たされますようにとの願いにつながります。人間の祈り・願いは自己本位になりがちです。けれども、自分の欲することではなく、神の計画こそが実施されますようにとは、イエス・キリストがゲッセマネで祈った、祈りの模範でした。また、主の祈りにおいても、「御心がなされますように」と祈るようにと教えられました。それに続いて、教会のための祈りとは、教会に集う兄弟姉妹たちすべてのために幸福を願うことばかりではなくて、それによって神の国が進展することです。教会でささげる祈りの多くは、実際のところ、教会活動の一つ一つについて聖霊の助けを祈ることではないかと思います。しかし、祈りはそうして内側のことばかりに関心を払ってはならないわけで、キリストが神の愛をもって全ての人に仕えるために世に来られたように、自分自身と隣人との平和と幸福を祈ることは教会の務めです。それはまた、生活の全領域で神の栄光を表すとのカルヴィニズムの指針からすると、あらゆる領域で人間の幸福が求められるところで、神の栄光が現れるわけですから、私たちが祈りをささげる対象となる領域は世界の全体に及ぶと言えます。「とりなしの祈り」の重要性が、近年では増してきているように思われますが、改革派教会で信仰生活を続けてきた私の経験からしても、とりなしの祈りによって、祈りの射程を広げることは私たちの課題であるように思っています。

どう祈るのか(問185)

問185 どのようにして、わたしたちは祈らなければならないか。

答 わたしたちは、神の尊厳の畏敬に満ちた理解、自分自身の無価値と窮乏と罪との深い意識をもって、罪を悔いる、感謝に満ちた、広い心をもって、知性、信仰、誠実、熱心、愛、忍耐、神への待望をもって、神のみ心への謙虚な服従をもって、祈らなければならない。

 私たちはどう祈るのか。これが、今回の修養会のテーマですけれども、ここには「立って祈る」とか「跪いて祈る」という祈りのポーズや、いつ祈る、何回祈る、どこで祈る、という具体的なことは一切書かれていません。例えば、カトリック教会ではそういうことも豊富に手段が定められていたりします。香を炊くとか、ろうそくを立てるとか、夜中の何時に起きて祈るとか。プロテスタントは、基本的にはそういうものを捨てたのですね。大事なことは心であると。イエスがファリサイ派の祈りの形式主義を批判したように、形ばかり立派に見える祈りは嘘だと。心からの信頼を神に向けて、キリストの憐れみに対する真実な感謝と献身に基づく祈りこそが、教会の祈りだと。そこで、重視されるのは、祈りの形式ではなくて、その霊的な姿勢です。

 初めに「神の尊厳の畏敬に満ちた理解」とあります。難しい表現ですが、ヴォス先生は次のように言い直してくれています。「私たちは神の絶対的で無限の偉大さと、あらゆる被造物から超越しておられることを、恐れかしこんで認識して、祈りをしなければならない」。これは、祈りでも賛美でも同じことです。映画の中で神様がモーガン・フリーマンの格好して出てくると面白いですけれども。ああ、彼はついの神様にまでなったかと思うと感慨深いものがありますけれども。セクハラで訴えられちゃいましたね、この間。でも、そんな神様を描いてしまうと、大教理問答のこんな定義は吹き飛んでしまうのではないでしょうか。「神の絶対的で無限の偉大さと、あらゆる被造物から超越しておられる」ような姿が。だから、神様を絵に書いてはいけないと十戒にあるわけです。映画は娯楽ですからね、あれはみてはいけないなどと狭量なことを私は言いませんけれども、その映画と同じレベルで礼拝のことを考えてはまずいだろうということです。その辺の区別が、一部の教会ではできにくいようです。その辺りのことはヴォス先生もこう書いています。

 「神の尊厳の畏敬に満ちた理解」ということは、現代の祈祷にはしばしば欠落していることであるか。-そのとおりである。神の真の子どもである証を示している人々でも、しばしば適正な畏敬をもって、祈りにおいて神に近づくことに失敗するのである。公的な祈祷でさえも、時として、神に対して述べるのになれなれしすぎることがある。このような間違った態度は近代のプロテスタント教会に、多かれ少なかれ流行して来ている。

 興味深いところですので、もう少し引用を続けます。

(それが)神の愛の一方的な強調の所産であることは疑いないことである。神の愛を強調する近代宗教は、愛とは神の本質の一面にすぎないということを理解していない。私たちは神の尊厳と聖さと正義を決して忘れてはならないのである。神は私たちが好むような仕方で話しかけることができるような呑気な知人、間柄ではないということを記憶しておくべきである。

 私の経験では、ここにあるような「近代的な」チャラいお祈りはきいたことがないのですけれども、もしかすると、近年のリタージーにある、神に「あなた」と二人称で呼びかけるような仕方は、ヴォス先生のような方には我慢がならないと感じるのかもしれません。

 祈りでも賛美でも、礼拝の堅苦しさを嫌って、それを何かして壊そうという衝動に駆られると、結局のところ、人間中心の自己本位な礼拝のかたちが出てきます。礼拝は反発でするのではなくて、打ち砕かれて神の前に進みでるものでしょう。そういう面が尊ばれなくなったと自覚するから、礼拝の中で「罪の告白」などが再評価されるようになっている。神の愛の暖かさは、福音に欠くことのできないものですが、それは福音自体が持つ性質で、上から来るもので、あるいは聖霊によって内から涌き出でるものであって、外側で演出するものではないのは確かです。この教理問答が記す答えにも「愛」はちゃんと入っています。けれども、それだけではないし、愛は雰囲気ではない。そして、「神のみ心への謙虚な服従」とは、先に触れた、ゲッセマネの祈りのイエスの姿ですよね。

 ヴォス先生が触れないでいる点は、その「尊厳」を重んじる人々の間にも、その厳しい重々しさで人を威圧するような形式主義がある、ということで、そういう、人間が上からモノを言う体制に反発したのが近代主義でしょう。その辺は、今度は正統主義に立つ人の方が祈りの真実さを求めて、へり下る姿勢についての自己改革を進めなければならない。教会が変わらずに重んじるのは神の権威であって、人の権威ではないわけです。

 ともあれ、私たちは祈りの中で、人間を超えたお方を前にする、ということは真剣に考えなくてはならない。「ウォー・ルーム」という映画の話をしましたね。あまりここで批判的な論病はしないでおこうと思ったのですけれども、「祈りの力」と訳されましたね。それで教会でも評判になったのですが、「祈り」に力があるわけではないでしょ?祈りにおいて励ます聖霊に、それに答える神に力があるわけですね。大切なのは、生きて、万物を支配している方の前に進みでること。イエス・キリストと共に。そうして、心を明け渡して、言葉をささげること。そういう真実さが、祈る姿勢において何より求められている。

祈りの基準-主の祈り(問186)

 さて、教理問答はここから主の祈りの解説に入ります。まずは、問186を読んでみましょう。

問186 神は、わたしたちの祈りの義務の指針として、どのような規準を与えられたか。

答 神のみ言葉全体が、わたしたちの祈りの義務の指針として有益である。しかし指針になる特別な規準は、わたしたちの救い主キリストが、その弟子たちに教えられた、一般に「主の祈り」と呼ばれている形の祈りである。

 『ウェストミンスター大教理問答』も『小教理問答』も、『ハイデルベルク信仰問答書』も、その後半は「主の祈り」の解説に当てています。主の祈りは、マタイによる福音書とルカによる福音書の二箇所に掲載されていて、主イエスから使徒たちが受け取った、いわば祈りのひな型です。長い祈りは必要ない。これだけ祈れ、と言って渡された祈りですから、難しいことが苦手な人でもこれだけで祈ることができます。私の祖父は、84歳で亡くなりましたけれども、晩年にはボケてしまって、俺はもう祈れないなどと泣いたのですけれども、主の祈りは忘れないでいることができました。

 今回は、その祈りの解説は省略します。皆さんの教会で何度でも学ぶ機会があるでしょうし、解説本もいくつも出ています。要点だけ触れると、主の祈りは6つの祈願から成り立っていて、前半の3つが神のための祈り、後半の3つが人のための祈りです。これは、旧約聖書の十戒の二枚の板にも対応します。前半が神礼拝について、後半が隣人愛についてですね。主の祈りの前半は、神の国の完成を祈ります。「神の国と神の義を求めなさい」とある通り、まず神の国を求めます。神の国の完成がイエス・キリストの到来から、世の終わりに向けて始まりました。そこにまず、私たちは主の弟子として心を合わせます。そして、この世にあって、様々に直面する生きるための必要を神に願います。この祈りは、「われらの」祈りです。自分だけの必要を願うのではなく、主の教会に召された私たちが共に祈る祈りです。そして、この祈りがとりなす範囲を考えれば、それは地上に生きるすべての人の祈りとなります。地上のすべての人々が、日毎の糧を得られるようになるのはいつなのか。世界のすべての国々が互いに許し合うことができるのはいつなのか。サタンの誘惑を退けて、神の裁きに耐えうる終末を無事に迎えられるのか。こういう願いにすべて答える形でキリストは再び来られます。その時を導く祈りが主の祈りです。それは、主イエスが教えてくださった完全な祈りだとも言えます。

主の祈りの用い方(問187)

 大教理問答では、問187で「主の祈りの用い方」について丁寧に記しています。

問187 「主の祈り」は、どのように用いられなければならないか。

答 「主の祈り」は、わたしたちがそれに従って他の祈りをなす型として指針であるだけでなく、一つの祈りとしても用いられる。それゆえ、これは、理解、信仰、敬けんな心、また祈りの義務を正しく果たすために必要な他の美徳をもって、祈られなければならない。

 祈るための心構えについては、先の問185と同じことが記されています。私たちは主の祈りをお手本として、自分の祈りを用意することができます。また、主の祈りをそのまま祈ることもできます。そうすると、これは第三講演でお話ししますが、主の祈りは成文祈祷になりますね。予め作られた祈祷文を読むかたちでささげる祈りです。長老派の伝統では祈祷文は避けられてきましたから、私たちも成文祈祷は慣れていないようにも思います。実際は、牧師や長老は、式文に書いてある祈りをそのまま礼拝で用いたりしてきたわけですけれども。そして、成文祈祷の問題は、それが書いてあるままを読むのですから、心が伴わないで、口にするだけというマンネリが起こることです。それを知っているために、この問187がわざわざ設けられているのでしょう。

 マルティン・ルターは、キリスト教史上最大の殉教者は「主の祈りだ」と言いました。つまり、心が伴わないで主の祈りを祈ることは、それを死なせることだ、ということでしょう。多くの信徒に経験があることではないかと思います。私は神学生の頃にそれを学びましたので、それ以来、主の祈りが集会で祈られるたびに心が痛みます。なぜ、集会の終わりにですね。主の祈りで締めくくるのでしょうか。ここにいる牧師に聞いてみましょうか。答えはあると思います。それは、主の祈りが、私たちの拙い祈りを完成してくれるからです。だから、終わりに主の祈りを祈って、私たちは神の御心に自分の願いを委ねます。では、そういうつもりで締めくくりの祈りを祈っているのかどうか。私は、代表者に祈ってもらうのがよいと思っています。けれども、さすがに教師会や長老会で指名されて祈りを嫌がる方はありませんが、普段の教会の交わりですと、突然指名されると嫌がる方が多いですよね。これも教会において祈りが未熟である証ですけれども。だったら、牧師や長老が祈ったらいい。私は祈祷会の締めくくりに主の祈りを祈ります。ですけれども、なにかけじめがいいからとかの習慣や雰囲気で主の祈りを唱えて、集会を終わりにするのはできるだけ避けたいと思っています。

 主の祈りを大切に祈るにはどうしたらよいか。それは、礼拝の場合は、まずはゆっくり唱えることです。大抵の信徒は暗記しているでしょう。それを諳んじている時は、大抵脳が働いていないんじゃないですかね。特に早口でスラスラ述べている時は。主の祈りばかりではなくて、十戒もそうですけれども、礼拝の中で唱える時は、その意味を確認しながら丁寧に読むことです。

 それから、その祈りの意味をきちんと学んでおくことです。先ほど言いましたように、教理問答書にその一つ一つの祈りについての解説があります。また、その教理問答の解説書もあります。あるいは、教会の学習会で牧師が主の祈りについての解説をするような機会もあると思います。西部中会の夏期学校では「主の祈り」をテーマに選んだことが何回かありました。ですから、まだ学んだことがないという方は、是非とも学ぶ機会を得てください。短い祈りですが、それが包む範囲は非常に豊かで、主の祈りはそこに福音のすべてが詰まっているとさえ言われます。そうして学んで祈れば、意味も十分わかります。言葉を味わいながら、主の祈りの心を合わせることができます。成文祈祷の優れた点は、整わない心を洗練された言葉の上に固着させてくれることです。


 

講演Ⅲ祈りと礼拝

序.祈祷と礼拝

 さて、講演の最後は実践的な話にしようと思ったのですが、まず、礼拝における祈りの位置付けをしておきたいと思います。キリスト教会の礼拝は、初めから人の心の中に備わっていた信心が形をとって現れたものではなくて、神の求めに応じて神の民の中に形を整えられていったものだ、ということを最初の講演でお話ししました。私たちの礼拝の根拠は、神にあり、そして、神から示された御言葉に基づいて礼拝の形式も用意される、ということが基本です。そこは信仰告白が明瞭にしているように、私たちの礼拝は聖書の規範に従います。ですから、全知全能の神に向かって、私たちの方で何がしかの礼拝方法を真剣に考えて行えば、すべて礼拝として認められる、という風には考えません。たとえば、十戒の中に「刻んだ像を造ってはならない、それを拝んではならない」とあります。像を用いた礼拝が禁じられているわけです。それを旧約聖書の時代ばかりではなくてキリスト教会も重んじて礼拝をささげて来ました。礼拝には聖書の基準がある。ですから、祈りについて考える時にも聖書の基準というものがあります。

 礼拝との関係で考えますと、祈りは礼拝の一部の要素と捉えられますけれども、祈りは礼拝の最小単位だと見ることもできます。礼拝の諸要素をぎりぎりまで切り詰めて最後に残るのは何かと考える時に、聖書朗読と祈祷だとはよく言われることです。祈りに先立つのは御言葉である、という原則からすればその通りですが、おそらく、必ずしも聖書を開かなくとも、心に蓄えた御言葉・主イエスを頼りに、祈りに向かうことが個々人にあろうかと思います。そうした祈りは、個人による礼拝行為として十分に認められます。聖書では心のない礼拝が厳しく批判されています。反面、心を注ぎだして神の前に立つ祈りについては幾つもの模範となる例があります。『サムエル記上』2章にある「ハンナの祈り」もその一つです。主イエスのゲッセマネの祈りもそうです。ですから、祈りとはまさに礼拝そのものであって、礼拝の心であるといえます。

 そこで、祈りの形について考えるに当たって、礼拝に個人の礼拝と共同(公同)の礼拝があるのとに従って、祈りについても共同の祈りと個人の祈りとを区別するのがよろしいと思います。『礼拝指針』もその点を明確にしています。個人の祈りについて言えば、形式的には自由で構いません。祈りの心構えについては注意すべきことがありますけれども、自由に自分の言葉で自分の関心を祈ることができます。それに比べると、共同の祈りは、そうはいかない点が出てきます。共同で祈るのですから、祈り手は会衆を代表します。一人の代表ではなくて複数の人間で祈る時もですね、互いに心を一つにして、天の神に言葉をささげるのですから、そういうものとして成り立つ祈りを心がける必要があります。

聖書の模範

 そこで、簡単ではありますが、礼拝の中での共同の祈り-公同の祈祷がどのように形成されていったかを辿ってみたいと思います。

 第一講演では触れませんでしたが、聖書で代表的な例を挙げると、列王記上8章に「ソロモンの祈り」があります。ダビデの悲願であったエルサレム神殿が完成して、そこに契約の箱を安置する際に、イスラエルの全会衆が集う前でソロモンが長い祈りをささげます。この場面全体が礼拝式になっていますが、祈りは23節から始まって53節に及びます。この「ソロモンの祈り」に見て取れる祈祷文の構成の仕方は、賛美と感謝に始まり罪の告白と赦しにつながり、民のとりなしの祈願がなされるという、一定の型をもっています。これは『詩編』の祈りにも共通のものを見いだすことができます。

 『詩編』には個人の祈りと共同の祈りのどちらもが含まれます。そして、それらを完全に区別することは難しくて、個人の祈りが途中で共同体の祈りになっていたり、終わりまで個人の告白にしても、それを共同で祈ったであろうということも考えられます。また『詩編』の用いられ方を考えると、共同体の祈りを個人の祈りにも用いることもできました。ですから、個人の祈りと共同体の祈りを、それがささげられた状況では区別されるものの、聖書から学ぶ祈りの文面では必ずしも区別できません。どちらにしても、『詩編』の祈りや、その他、聖書に散りばめられた祈りが、教会の祈りの模範となるのは確かです。そして、そこには一定の型が認められます。

 そこへ新約聖書の「主の祈り」が登場します。ルカとマタイではそれが伝授される状況が違っていますけれども、文面は一緒です。主の祈りは、詩編の祈りと比べても、当時のユダヤ教徒たちが用いていた「十八連祷」という祈りに比べても極めて簡潔なのが特徴です。そして、『マタイによる福音書』によれば、「くどくどと祈るな」とイエスが教えておられて、それに続いて、この簡潔な「主の祈り」が与えられたというのですから、キリストの弟子たる教会にとっては、「主の祈り」こそが祈りの規範になります。

 ここで聖書の祈りの模範に基づいて、祈りの言葉を考えてみますと、文体としては詩文が中心で、神の名、賛美、感謝、告白、祈願などが、神に向かって一方的に呼びかけられます。祈りは神との交わりであり対話だと言われますけれども、正確に言うと神が人に語られる仕方は御言葉を通して-旧約ですと預言者ですが-語られるのでして、それに応える方式が祈りになるわけですね。祈りだけで対話が成り立っているわけではない。神が必ず聞いていてくださるという確信から、また、聖霊が祈り手の心に働いているという信仰から、これが対話だということはできるのですけれども。しかし、実際は、祈りはこちらからあちらへ言葉を発する行為ですね。言葉を神にささげている。聖書の祈りは、ですから、ささげものに等しい。旧約の民は牛や羊をささげて、罪の赦しを願ったり、満願成就を感謝したりする仕方が、神殿での礼拝に備わっていました。神殿を失った、または、それを必要としない新たな時代には、神へのささげものはもっぱら祈りを通して、言葉と心のささげものとして、神に向かうものとなったわけです。

 たとえば、主の祈りから考えてみますと、中心はすべて祈願ですね。「願わくは、御名を崇めさせ給え」「我らに日用の糧を今日も与え給え」。これらの願いをするにあたって、私たちは無償でそれを要求するんでしょうか。旧約時代には、真剣な願いを神から求めるに際しては、牛や犠牲のささげものをして、きちんと報酬を神にささげることが求められました。「ハンナの祈り」もそうですね。子どもをくださいと泣きながら願いましたけれども、もしも願いが叶えられたら動物の犠牲をささげますという誓いをしたわけです。それでサムエルが生まれてから、誓った通りの犠牲をささげました。私たちはどうでしょうか。主の祈りにしても、自由な祈りにしても、願いっぱなしです。では、私たちの側から神にささげられている報酬は何かと言えば、キリストの犠牲です。イエス・キリストが私たちのためにご自身を神にささげてくださったので、私たちはもはや犠牲を求められることはない。そこからしますと、私たちの祈りは、主の犠牲を伴った神へのささげものです。感謝や告白や願いを述べるのですけれども、それは私たちの魂のささげものとしてキリストと一緒に神の元に届けられる。ですから、祈りについて考える時には、私たちはどのようにして言葉と心を神にささげるかを考えなくてはならない。たぶん体もそうですね。跪くのかひれ伏すのか、ということも本来は関心に入ることだったはずです。このように聖書から私たちが学ぶ祈りの形は祈願にせよ告白にせよ献身の表明であって、対話というような中立的なものではありません。

礼拝の中での祈祷

 さて、キリスト教会が出来てからも、信徒たちはいきなりオリジナルな形の祈祷を発展させたのではなくて、ユダヤ人の伝統に頼りながら、詩編を用いたり、自由な祈りをささげたりした模様です。イスラエル民族の祝福を祈る「十八連祷」などは主の祈りに置き換えられて、伝統に束縛されない形で発展していったのでしょう。本当に初期の頃の様子は聖書以外に手がかりがありませんから、推測する他はありません。それでも2世紀から4世紀にかけて、定型の祈祷文が現れます。それまでは、礼拝の中で信徒や司牧者が祈る自由な祈祷と、おそらく各教会で形成された共同の祈祷文とが混合した形で用いられたようです。この期間に発展した祈りは「執り成しの祈り」だと言われます。執り成しの祈りは、様々な弱さをもった人のため、為政者のため、すべての民族の救いのため、と教会の内外のために広く祈られます。2世紀の教父ユスティノスが書き残した文書によると、礼拝では説教の後と聖餐式の前の間にこの祈りが祈られたようです(オールド『改革派教会の礼拝』174頁)。

 中世になると礼拝の形式化が進むと同時に、祈祷は内面的に深められて瞑想的になり、執り成しの祈りのような会衆の祈りは失われます(同上、175頁)。そこで会衆の祈りを取り戻したのが宗教改革の運動になります。宗教改革が進められていく過程では、従来の祈祷文が自国の言語に翻訳されたり、古代の祈祷文が再発見されてして、祈りの新しい形が求められていったと言いますが、そこで定着して行った祈りの型とは、罪の告白と赦しの宣言、そして執り成しの祈りでした。また「詩編歌」が作られて、歌う祈りとして賛美に用いられるようになります。

 この時期の祈りの特徴は、自由な形式の即興祈祷と定型的な祈祷文との併用です。即興祈祷とは言ってもそこに独創性ですとか創造性を求めたのではなくて、聖霊の聖化を願って、祈ることにおいて成長するためだと言われます(同上、178頁)。

 一つの長い祈祷がぽつんと礼拝の真ん中におかれる、いわゆる「牧会祈祷」の始まりは、ピューリタンの会衆派から始まります。『ウェストミンスター礼拝指針』はこの祈りの仕方を支持していますが、それはスコットランド長老教会がピューリタンに妥協したためだそうです。今、この辺りの歴史をお話しするのに参照している『改革派教会の礼拝』という書物を著したオリファント・オールド博士によりますと、『ウェストミンスター礼拝指針』の牧会祈祷には弱点がある、と三点あげています。まず「第一に、それは最も成熟したキリスト者にだけ益となる、我慢できないほど長い祈祷を生み出した」(同上、181頁)。そして、第二に、古くから伝えられてきた礼拝順序を変えたために、執り成しの性格を減退させ、「一般的なすべての目的を祈る祈祷となった」。そして、第三に、牧師の賜物に依存することによって、牧師の怠りから一般信徒の倦怠を招いたこと。

 自由祈祷を推進したのはスコットランドの長老派だと思っていましたが、オールド教授の指摘はそうではなくて、先に述べましたようにピューリタンの会衆派だとのことです。それに長老派は妥協して行った。スコットランド長老教会は、英国国教会から押し付けられた礼拝書を激しく拒んだのですけれども、成文祈祷を拒んだわけではない、と言います。祈りの形式について言いますと、長老教会では伝統的な成文祈祷を保持しようとした。けれどもその後、『ウェストミンスター礼拝指針』に見るような包括的な牧会祈祷に妥協し、その後、プロテスタント教会では啓蒙主義時代の敬虔主義の流れが生まれて、個人的で即興的な祈りが奨励されて、今日の福音主義諸教派では、自由祈祷が主となった、ということです。

 近年ではカトリック教会での礼拝刷新に刺激されて、プロテスタント教会が礼拝への取り組みを深める中で、改革派・長老派の諸教会もリタージーの見直しを進めるようになりました。私たち日本キリスト改革派教会でも、だいぶ時間をかけて式文の改訂作業を行っています。そこで今日の潮流では、成文祈祷と自由祈祷の両立をはかるようになっています。流れからすれば、もっぱら自由祈祷であったところを、成文祈祷の豊かさをもう一度取り戻して、礼拝に霊的な刷新をもたらそうとしています。これは、プロテスタント諸教派から出されている礼拝書や祈祷文集を見ていただくのが一番よいかと思います。

改革派教会の礼拝と祈祷

 ここで私たちが今執り行っている礼拝式を振り返ってみます。日本キリスト改革派教会には、『礼拝指針』と『式文』の両方が備わっていて、礼拝を行う際の基準となっています。スコットランドの長老派の伝統では、イングランドの式文を拒否しましたので、礼拝指針だけを定めて式文は用いません。方や、大陸の改革派の伝統では、式文を用いて礼拝指針は持ちません。現在の改革派・長老派教会においても、そのどちらかであるのが普通です。例えば、北米キリスト改革派教会(CRC)は式文を用いません。また、合衆国長老教会(PCUSA)には礼拝指針がありません。私たち、RCJは、礼拝に関してその二つを同時に持つ珍しい教派です。

 教会憲法に属するのは『礼拝指針』ですから、『式文』には拘束力はなく、それをお手本にして実践すればよい、というほどのものです。また、『礼拝指針』にしても、それはあくまで「指針」であって規則ではないので、その規定する範囲については流動的です。

 私たちの『式文』には現在、二つの礼拝式順が用意されています。皆さんの教会で行われているのは、このどちらかのタイプだろうと思います。この礼拝式順の中に「牧会祈祷」が含まれています。先ほどお話ししましたように、これが説教前の祈りとしてピューリタンの教会で定着した方式です。これは礼拝式の(1)の方がより顕著かと思います。説教前に教会の全般的な祈りをそこでまとめて祈るわけです。式順の(2)ですと「罪の告白と赦しの宣言」がありますから、その要素が牧会祈祷とは分離した形です。これを行わない場合は、それも牧会祈祷に含めて行います。もう一度振り返りますと、この分離した形が長老教会の伝統で、宗教改革期にさかのぼるより古い形式です。

 牧会祈祷は、必ずしも牧師によって祈られては来ませんでした。私が育った江古田教会では長老が担当していたように思います。礼拝の祈りが一箇所に集中するこの形では、教会の牧会に責任をおう牧師・長老が祈るのがふさわしいと言えましょう。これが「説教前」になされるのは、罪の告白がそこに含まれているのと、聖霊の照明の祈りが含まれているからではないかと思います。これがカルヴァンの時代の礼拝式ですと、祈りの諸要素が分散されて各所に配置されます。そちらが古い方式であることは先にお話ししました。

 祈りの諸要素のうち、カルヴァンが重んじたのは「聖霊の照明を求める祈り」だと言います。私も今、長野佐久伝道所では聖書朗読の前にその祈りをささげています。「主よ、どうか、あなたのみことばと聖霊により、私たちをお導きください」というような祈りです。これは、カルヴァンの礼拝式順ですと説教の前に短く祈られる祈りでした。

 今日、礼拝式の見直しがなされる中で、この祈りの配分の仕方もまたピューリタン以前の宗教改革の、または、古代教会の方式が取り入れられるようになって来ています。それはカトリック教会の模倣ではないかと言われてしまうのですが、そういうつもりではなくて、罪の告白があり、聖霊の照明を求める機会があり、執り成しがささげられる、という祈りのそれぞれの要素が礼拝の中で大切に扱われるように、ということなんだと思います。牧師や長老が説教前に長大な祈りを、しかも自由祈祷によって祈るときに、祈るべきことが祈られなかったり、短縮されたりということは十分にありえます。またそれを牧師や長老の個人的な賜物に全く委ねてしまうよりも、それぞれ別個に罪の告白をなし、聖霊の照らしをいただき、教会と世界のために執り成しをささげることは、それらの祈りに信徒が実質的に参与するよい機会となるのではいかと思います。

 新しい礼拝の順序についてはカルヴァンの礼拝式や合衆国長老教会の礼拝式、近年のスコットランド長老教会の礼拝式を比べてみることができます。また、まもなく大会憲法委員会第3分科会から新しい式文が出されます。そこには、主日礼拝の式文だけで5つの事例が含まれています。

 「執り成しの祈り」については、第一講演で聖書の祈りの特質として取り上げましたが、これが今日注目されている礼拝式の特徴の一つにもなっています。カルヴァンの礼拝式を例にお話ししますと、主日の礼拝が「み言葉のリタージ」と「二階間のリタージ」の二部構成になっています。これは古代教会から受け継がれている礼拝式の基本形です。み言葉のリタージとは聖書朗読と説教が中心になっていて、古代では未信者もここに招かれて一緒に御言葉を聞きました。そして、「二階間のリタージ」とは、今日で言えば聖餐式のことで、本当に二階間で行われたこの第二部には未信者は入ることが許されませんでした。二階間の入り口には門番が剣を持って立っていたと言います。伝統的な礼拝式はこのような二部構成になっているわけです。

 そこでカルヴァンの礼拝式では、説教が終わると聖餐式になるのでして、その始めに「献げ物の収集」が行われます。これは、今日で言えば献金に当たる部分です。「献げ物の収集」とは、聖餐に用いられるパンと葡萄酒も含みますが、それ以外の支援物資が持ち寄られて、貧しい兄弟姉妹に分配されるためのものでした。それを集めて、主にささげて、続いて「執り成しの祈り」がささげられるわけです。

 ですから、献金の後の祈りを私たちもささげていますけれども、この流れからしますと、献金によって主へのささげものを果たして、私たちの献身の誓いがそこでなされるばかりではなく、それらのささげものが意味する、主の愛の業の一環の中で、「執り成しの祈り」がなされるわけです。そして、祈りの最後に、主の祈りが、神の国を願う祈りとして、締めくくります。

公的祈祷のささげ方

 さて、ここから私たちが公的礼拝で祈る場合の実践的な問題に入っていきたいと思います。まず、祈りはささげものである、ということを始めに申しました。ですから、祈りの言葉についてはよく吟味されることが大切です。そうすると祈れなくなってしまうとの恐れも出てくるでしょうけれども、祈りを学んで習熟することに積極的でありたいと思います。

 皆さんが公同礼拝で祈る機会は、今は献金の祈りをおいて他にありませんが、献金の祈りを例としてお話しすることにします。まず、そこでは礼拝をささげている教会全体を代表して祈りますので、そのことを念頭に、「わたしたち」として祈る心構えを持ちたいところです。平易な言葉で簡潔に、感謝と献身の思いを神の御前に述べます。献金は執り成しの祈りをささげる機会ですが、どう捉えて実践するかは教会によって違うことでしょう。通常は、感謝と献身の告白だけだと思います。

 私のいたことのある教会・伝道所では、献金感謝の祈祷文を用意しています。これは、江古田教会が随分昔に導入した方法で、どう祈ったらいいかわからない時に参照していただくための例です。書かれた祈りでは祈りにならないと考えるのは間違いです。主の祈りは歴とした祈祷文ですけれども、祈りにおいて大切なのは言葉と思いとを一つにすることです。祈りを文書にすることは大切で、必要なことを適切に順序立てて、皆の前で口にするのにふさわしい言葉で祈るには、文章にすることが有効です。祈りに習熟してきますと、お手本を参照しないでも自由に祈ることができるようになります。ただ、自由に祈る場合には、献金祈祷の意味を十分に弁えた上で、適切に祈ることが求められます。勝手に自分の思いであれこれの願いをつけ加えたりしないことが肝要です。

 一般的には、祈祷文や祈祷書を用いて祈るか、自由な言葉で祈るかは、その状況にもよります。ただ、祈祷文にだけ頼るようになりますと、自分の言葉で祈ることが難しくなります。これは大阪にある聖公会の司祭がそう言っていました。聖公会には立派な祈祷書がありますけれども、そのために信徒が自由に祈るのは難しいのだそうです。また、自由な言葉で祈ることに慣れている人は、一度、カトリック教会や聖公会の祈祷書を見たらよいかと思います。実に無駄のない、美しい言葉で、祈りが綴られています。公的な祈祷文に関して言えば、多弁なものは殆どありません。

 公的な場での祈りですけれども、礼拝の時ばかりでなく、共同で祈る場合はやはり公的な場になります。祈祷会での祈りや、月に一度の全員祈祷会でなされるのも公の祈りです。ですから、今お話しした言葉の吟味は同じように当てはまります。この場合の祈りには、しかし式文を用いることはありません。皆が自分の言葉で祈ることになっています。その際に、自分で吟味せよと言われても難しいことかも知れませんが、心構えとしてだいたい以下のことを覚えておけばよろしいかと思います。

 まず、何よりも簡潔に祈ることです。丁寧な言葉で語ろうとするとどうしても表現が長くなりがちですが、それでも、あれこれ飾り言葉を用いないで、まっすぐ祈ればよろしいと思います。そして、共に祈る目的は、教会に共通の課題について祈り願うことです。個人的な祈りをそこに挟まない。個人的なことを祈ってほしい場合もあろうかと思います。そういう時は、誰かにお願いして、牧師でももちろん結構ですけれども、そういう個人的な場で祈るようにします。それから、祈りを聞いていてよく思うのですが、祈りは神への語りかけですね。誰に語っているのかをいつも念頭おかないと、目をつぶって演説することになってしまいます。一緒にいる兄弟姉妹に聞こえないと仕方ありませんけれども、それらの人に向かってお話しするのが目的ではないはずです。すべてをご存知である神に、あえて、私たちの願いを申し上げるのですから、簡潔に、神に求める言葉が、出て来るはずです。

 もう一つ重要なこととしては、祈りの中で誰かの執り成しをする場合です。これはボンヘッファーが言っていることですが、祈りの中でそこにいたり・いなかったりする兄弟姉妹のことをあげつらわないように注意することです。心の中にあることをぶちまけたい時には、まずは一人で神に向かって祈るべきでしょうし、それでも収まらない時は、本当に信頼できる信仰の友に打ち明けて一緒に祈ってもらえばよろしいでしょう。

祈りを学ぶ方法

 さて、どのようにして祈りを学んだらよいか、ということを最後にお話ししておきます。まず、昨今では祈りについての研究書ばかりではなく、祈りの例文集とも言える本がいくつも出されています。最近見つけたのは、ルドルフ・ボーレンの『祈る-パウロとカルヴァンとともに』という本です。最初に御言葉があって、その主題に即したボーレン先生の祈祷文があって、その後にカルヴァンのコメントがついています。個人的な祈りの学びにはうってつけの本だと思います。そうした現代の牧師のものの他にも、先に紹介しましたカトリックの祈祷書や聖公会のものなど、教派を超えて見渡せば、祈りの参考になる文書は多数あります。古い翻訳のものなどは日本語が古いので実用には向いていないかもしれません。

 そういうお手本をではどう用いるかといえば、ざっと読んでみても勉強にはならないのだと思います。実際にそれらの文集を、実例を用いて自分で祈ってみる。できれば、声に出して祈ってみると、祈る言葉にも敏感になれますし、祈った言葉が自分の言葉になることもあります。ともかく、礼拝というものは頭で理解しようとしても限界があって、実際に、自分の体を神の御前に据えてみないと会得できない面があります。祈りもそうでして、実践することこそが習熟への道です。

 公的な祈祷をささげる、つまり、人前で祈ることができるためにも、個人で祈る習慣ができていませんとなかなか捗りません。成文祈祷を用いれば大丈夫だ、という安心感もあるかもしれませんが、やはりここは個人で自由に祈れることも大切だと思います。祈りは見よう見まねで徐々に覚えて行くものですけれども、その気がなくては本当に覚えることはできません。聖書を読んで、そのみ言葉に促されて祈る、個人の祈りの生活が祝福されれば、人前で祈ることも恐れるに足りません。むしろ、人前で祈って、普段は祈っていないことがバレてしまうのが怖い、ということはあるでしょう。

 そして、祈りが適切になされて、共同の祈りの豊かな祝福に与るためには、祈りの共同体である教会についての理解を深めることです。D.ボンヘッファーの『共に生きる生活』からは、祈る心を一つにするキリストの体である教会の、実に豊かなヴィジョンが与えられます。代表者が交わりを代表して祈るとき、そこには共同体全体の委託があり、同時にその祈る兄弟姉妹を支える執り成しが全体から寄せられている。そうして、お互いの欠けを互いに補い合って、神に向かう一つの祈りが成立する。私たちは、祈りにおいて、キリストに結ばれた教会の恵みを学びます。教会の内に働く聖霊の息づかいを共に聞くわけです。自分一人の思いや悩みに沈み込むときに、私たちの祈りは激しい熱を帯びるかも知れませんけれども、神との結びつきは消え入りそうです。しかし、兄弟姉妹と離れてはいても教会に結ばれていることを感謝して、その祈りの交わりに支えられて祈ることは、キリストの確かさの故に心強いものです。

 皆さんは祈祷会には出席していますか。クリスチャンホームならば家族揃って出席したいところですが、そういう習慣が身についている家庭はあまりないかもしれませんね。でも、あたりまえですが、青年だって祈祷会に出て構わないんですよ。教会役員のための集会ではありませんから。教会の成長も伝道も祈祷会から始まる、とはよく言われてきたものです。私もそれを教会の現場でそう思わされています。祈祷会は教会活動の中で一番恵みに溢れた時間です。主の日の礼拝ではないか、と言うかもしれませんが、少なくとも牧師にとっては祈祷会の方が嬉しい時間です。集う一人ひとりが近いのですね。また、互いの祈りを聞きあうことで、信仰の分かち合いをすることができます。昔こうだったという話をすると皆いやがりますが、やっても良いという意味で話しますと、江古田教会の青年会に小峯先生がいた頃だったか、早天祈祷会を青年会で始めたんですね。一時期は毎日したこともあったのではないかと思いますが、週日に集まって、2・3名の時もありましたけれども、やっていたのですね。こう言いながら、私は殆ど参加していませんでした。それで「早天祈祷会のテーマ」なんていう歌もできたくらいでした。立派な先輩たちだったなあ、と思うよりも、楽しかったですね。青年会も元気で、励ましに満ちていて、それで牧師になる人も次々と出たのかなと思います。祈祷会の愉しみをもっと知ってもらえたら、皆さんの信仰も活き活きしてくるのではないかと思います。

祈り

天の父なる御神、私たちはあなたの深く大きなみ旨を知り得ず、あなたに祈る言葉を持たないものではありますけれども、福音を通してみ声を聞いたときから、私たちはあなたを信頼する心が与えられ、拙いながらも言葉を発することができるようにされました。どうか、み旨に叶う言葉で祈りをささげ、私たち自身をあなたにおささげし、キリストの体に結ばれていることの喜びをいつも感じていることができるように、私たちに聖霊の助けを御与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。