ヨシュア記21章1ー45節「レビ人の町」

 

レビの嗣業

 土地の分配の補足として先きに「逃れの町」が指定されましたけれども、続いてもう一つ、レビ人の町がこの21章で指定されます。これもモーセが律法の中で指示してあったことの実行として記されます。もう一度思い起こしておきたいと思いますが、ヨシュアの働き、もしくはヨシュアの時代の意義は、モーセの律法の完全な実行によって、神の恵みの約束が完全に成就したことです。

 レビ人は他の部族とは違って嗣業の土地の分前からは外されていました。何故ならば、レビ人の受け継ぐべきは土地ではなく、神に仕える職務であって、その特別に指定された働きの故に、守るべき土地は与えられないことになっていました。「私があなたたちの嗣業だ」と主は言われました。

 しかし、レビ人たちにも家族があり、家を建てて生活して行かねばならないわけですから、彼らにも生活の拠点が必要でした。そこで、レビ人のためには各部族が土地を提供して、彼らの生活圏を用意することが求められました。彼らはイスラエルのために主の礼拝に関わる奉仕をささげてくれるのですから、その働きを支えるのは他の部族自身のための義務であったと言えます。主の土地にあっては、レビ人はいわば公務員としてそれぞれの部族の領域で働くよう、聖別されていたわけです。

 これは、今日の教会にも受け継がれる精神だといえます。キリスト教会の教職者は、いわば旧約時代のレビ人の位置をもたされています。新約時代の使徒たち、宣教者たちがそうですが、彼らは御言葉の務めを果たすために、教会で集められた献金によって禄を食む立場に置かれます。宣教者のパウロは手に職をもって―彼はテント職人でしたが―異邦人伝道の働きを各地で行いましたが、自分が教会の支援金で働きをする資格がない訳ではないことも強く訴えています。ドイツのようなキリスト教国ですと牧師は国家公務員になりますが、そうではない日本のような宣教地では教職を支えるために教会自身が多くの献金をささげます。それは、主の嗣業である教会を守るための、神の民の義務として行われるわけです。

 ユダヤ教の歴史を学んでいてこんなことを聞いたことがあります。中世の頃のフランスで―当時は「フランス」とは言わなかったと思いますが―町にラビを迎えることは一大事業でした。高名なラビを迎えることができるかどうかは、その地方の霊的な祝福を大きく作用します。そこで、有力なラビを迎えるために、市の代表者たちは「あなたに町を一つ差し上げますからどうぞ来てください」と招聘したそうです。今日では大げさと思われるかも知れませんが、主の働き人を招くということはそれだけの真剣さと情熱をもってされるものであることは、キリスト教会も同じことです。

 私たちの教会では、「招聘制」という制度によって、牧師が教会に着任します。ですから、今お話しした中世のヨーロッパと同じような手続きで御言葉の奉仕者を呼ぶわけです。私が聞いたことのある話では、「給料が安くて済むからあの若い牧師を呼ぼう」などと軽率な態度で牧師を呼ぼうとした教会があるそうです。あるいは、「そろそろ牧師の昇給が負担になって来たから、独り身の新米牧師を呼ぼう」と相談して、牧師をクビにしようと謀った小会もありました。牧師は給料のために働くのではありませんから、そのことは奉仕者それぞれが強く自覚せねばなりませんけれども、同時に教会も主の働き人を支えるに当たっては最大限の配慮をすることは、教会の自覚として重要です。言うまでもないことかも知れませんが、そうしたことが伝統として根付いている教会とそうでない教会がありますから、まさに教会で「嗣業を受け継ぐ」ために心に留めておきたいと思います。

 さて、レビ人に対する報酬が定められた箇所は、民数記35章です。そこでは詳しく次のように取り決めがなされています。

 エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野で、主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に命じなさい。嗣業として所有する土地の一部をレビ人に与えて、彼らが住む町とし、その町の周辺の放牧地もレビ人に与えなさい。町は彼らの住む所、放牧地は彼らの家畜とその群れ、その他すべての動物のためである。レビ人に与える町の放牧地は、町の城壁から外側に向かって周囲千アンマとする。あなたたちは、町の外から東側に二千アンマ、南側に二千アンマ、西側に二千アンマ、北側に二千アンマ測り、町をその中央に置かねばならない。これが彼らの町の放牧地となるであろう。あなたたちは、人を殺した者が逃れるための逃れの町を六つレビ人に与え、それに加えて四十二の町を与えなさい。レビ人に与える町は、合計四十八の町とその放牧地である。イスラエルの人々の所有地の中からあなたたちが取る町については、大きい部族からは多く取り、小さい部族からは少なく取り、それぞれ、その受ける嗣業の土地の大きさに応じて、その町の一部をレビ人に与えなければならない。

 レビ人に一つの町が与えられますと、その町の周囲に放牧地が付け加えられます。そうして、レビ人たちも家畜を飼うなどの私有財産を持つことが許されます。彼らの働きは牧畜や農業ではなく、聖所での奉仕を通じて聖職禄が支給されます。そういうレビ人たちが各部族の地域に必要でしたので、彼らは分散してそれぞれの町に住むことにされました。

アロンとその家族

 レビ人の町の指定は、レビの子孫の名に従って、またくじによって定められました。レビの系譜については出エジプト記6章に詳しく記されています。それによりますと、レビの子らの名前は、ゲルション、ケハト、メラリの三人です。そして、そのケハトの子らの中から、アロンとモーセが登場します。神はモーセの兄にあたるアロンに、永遠の祭司職をお与えになりました。今、この土地分割の場面で、ヨシュアと共に立っている祭司エルアザルはアロンの子です。そうして、アロン家には神の聖所・神殿で礼拝を司る特別な任務が定められましたから、ケハトの氏族はレビ人の中で扱いも別になっています。アロンには結びつかない他のレビの子らは、「残りのレビ人」と言われます(20節)。

 祭司アロンの子孫には、そのようにしてユダ・ベニヤミン・シメオンの領域から、相応しい町が13選ばれて与えられました。そこには、逃れの町であるヘブロンが含まれます。20章で指定されていた6つの逃れの町は、すべてレビ人の町に指定されています。ヘブロンに続いて、シケム、ゴラン、ケデシュ、ベツェル、ラモトと、それぞれ丁寧に名が挙げられています。前回、20章で確認したように、逃れの町は死刑に当たらない犯罪を犯した者の命が保護されるために神が定めた施設です。レビ人がそこでは奉仕をしていました。

 こうして、レビ人が分配を受けた町は全部で48になります。彼らはそこから収穫をもたらすべき嗣業の土地は与えられませんでしたけれども、生活するための場所を定められて、主のための奉仕をして神とイスラエルの民に仕えるようにされました。このようにして、約束の土地での神の民の生活が整備され、開始されたのでありました。

恵みの約束の実現

 モーセの五書から続く長い物語を辿ってみれば、43節以下に記された文言は感慨深いものがあります。イスラエルはかつてエジプトの奴隷でした。人間として扱われず、王の命令によって子どもたちを殺されたことさえありました。しかし、神はモーセを励まし、イスラエルを守ってご自身のもとに集められ、これに御言葉を与え祝福して、土地を与える希望によって荒れ野を導いてゆかれました。そうした、苦しい旅と戦いの果てに、イスラエルの民は遂に安息の地に導かれたのでした。もはやそこには敵もなく、自らの流した汗が地に実る、人として安心して暮らせる平和な生活がカナンの地に実現しました。

 主がイスラエルの家に告げられた恵みの約束は何一つたがわず、すべて実現した。(45節)

これがここで与えられるメッセージです。モーセの言葉に完全に聞き従った時、神の約束は必ず成就します。イスラエルはいつもその時のことを思い返して、御言葉に従う信仰へと促されます。イスラエルの民の歴史物語はここからさらに続きます。今度は、イスラエルが王国を目指して歩み始めます。そこではまた、ヨシュアの後の時代、彼らの信仰が試されます。ヨシュアの世代と同じように、神の言葉に服従して、祝福を得るかどうかが試されていきます。そして、彼らは決定的に躓くわけです。このせっかく与えられた「乳と蜜の流れる土地」も敵の手によって奪われてしまいます。けれども、そうした時も、「恵みの約束は何一つたがわず成就した」ことの出来事が、イスラエルを悔い改めに導きます。何故なら、神が語る「恵みの約束」は、いついかなる時にも取り去られることがないからです。神はこの後も預言者たちを送ってイスラエルに約束を与え続けました。そして、その「恵みの約束」はイエス・キリストの到来によって確かに実現します。神の恵みによって、キリストの十字架による贖いを信じた者たちのすべてが、天の御国を受け継ぐようにされました。ヨシュア記における土地の分配の記述は、私たちもまた神の国を必ず受け継ぐことの証しです。恵みの約束を信じて、聖書の御言葉と共に、キリストと共に歩んでいる私たちの毎日は、確かな道であることを心に留めたいと願います。

祈り

天の父なる御神、あなたは御自分の約束に対してどこまでも真実であられることを御言葉から知ることができて感謝します。私たちが、イエス・キリストの内に、あなたの恵みの確かさを受けとめ、あなたが必ず果たしてくださる救いの成就を待ち望んで、私たちの人生を全うすることができますように支え、導いてください。私たちが道を誤った時にもどうか、主の十字架のゆえに罰を逃れさせてくださって、再びあなたの約束に立ち戻らせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。