エフェソの信徒への手紙4章1ー16節

霊における一致

 

会員総会を終えて

 本来ならば定期会員総会の行われる主日に、年間標語に関する説教をしたいのですけれども、その辺りの調整はうまく行きませんでしたので、一週送りにして今日の機会を待ちました。今年2018年度は『エフェソによる信徒への手紙』の4章にある御言葉を頼りに、「霊による一致を求める」との標語を掲げました。昨年、私たちは伝道所の合併を果たして「長野佐久伝道所」になりました。そして、合併してから最初の会員総会を先週行いました。そこには私たちが一つになったことの証がありましたけれども、具体的に何をもって一つとするかが今年のテーマとなります。そこで、今日はまずここから使徒パウロが語る御言葉に聞きたいと願います。

 最初に、「あなたがたは神から招かれたのですから、その招きに相応しく歩み」なさい、とあります。私たちは自分の内にそれなりの理由があって教会の門をくぐり、洗礼を受けてキリスト教の信仰生活に入ったかも知れません。けれども、主イエスが「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることは出来ない」(6章65節)と言われたように、私たちが教会へ来てキリストの体に結ばれたのは、神が招いてくださったからです。もとより、私たちには神に救っていただく資格はありませんでした。神を知らずに、その御旨も思わずに生きていた私たちは、終わりの裁きによって死んで滅びる他はなかったのですけれども、御子イエス・キリストが私たちの救いのために必要なすべてを成し遂げてくださいましたから、私たちは何の資格も問われずに、ただ、キリストが救ってくださるということを信じて、神の子として教会に受け入れていただきました。それが、私たちひとり一人の上に神が定めておられた計画です。

 私たちは、ですから、神に召されてキリスト者となり、キリスト教会の教会員とされています。今時の教会の子どもたちは、自分が何故、主の日の礼拝に来なければならないか分からないと言います。子どもの頃は親が連れて来たから言われるがまま来ていたのかも知れませんけれども、親離れして自立してゆく過程で、自分の判断で教会への関わり方を決めなくてはならない段階になって迷うのだと思います。教会の大人たちは、若者たちを説得するために、改めて自分の信仰について問い直すことになります。

 神は、イエス・キリストのもとにご自身の選んだ者たちを集めて、そこに教会をお建てになります。私たちがキリストに救われるのは、その神のお働きにあってのことです。世界はキリストを信じた自分中心に回っているのではなくて、キリストがすべての権限を父から与えられて、その御旨にある救いをこの世で果たして行かれます。そこで、私たちはキリストに召されました。信仰は自発的なものですから、私たちそれぞれが自分の意志で来ようと思って礼拝に集い、信じようと決心して洗礼を受けることは大切です。しかし、それらは信仰の本質からすればキリストの召しによります。ですから、なぜ、私たちは礼拝に集うのか、また、教会での奉仕をささげるのか、ということの理由は、私たちの内にあるのではなく神の内にあります。それが、主に結ばれた私たちの召しであるからです。主に召されたところで、その召しに従って信仰生活を送る、ということが身に付いて行きませんと、周囲の者にもそのことは伝わりません。主の召しに背を向けて教会を離れてゆくならば、救いの恵みからも遠ざかることを私たちは心しておかねばなりません。

 「主の召しに相応しく歩む」ということが、2節では四つの徳目で表わされます。謙遜、柔和、寛容、忍耐です。これは、パウロの手紙の中でしばしば用いられる徳目表に基づくものです。この一つ一つがどういうものかは、詳しく説明する必要もないと思います。パウロがこれらの徳目を挙げるのは、それによって教会が「霊による一致を保つ」ためです。「保つ」というのですから、すでに一致があるわけです。教会には聖霊が働きます。ひとり一人の内にキリストの霊が住まわれることは、3章16節以下でパウロがこう祈っているところか分かります。

 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

しかし、教会の交わりとしても一つの霊が平和の絆をつくります。「キリストへと向かう一つの心」がその霊です。

 教会にはいろいろな人が集まります。それぞれの霊的な状態も異なります。ですから時には人と人とがぶつかり合うことが出て来ます。また、気まずい者同士が互いに距離をとる、ということも生じます。そこで、「謙遜、柔和、寛容、忍耐」が、一致を保つために求められます。これらの徳目を説明して「臆病な人、難しい人、つまずきとなる人を、静かに礼儀正しく扱う能力」だと言った人がいます。「一致を保つように努めなさい」ですから、平和を保つ努力が主の召しに答えるために求められます。『コロサイの信徒への手紙』ではパウロはこう言っています。

 愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。(3章14−15節

教会の一致

 4節から6節では、教会が一つである、と告げられます。一つの教会が、一つの体、一つの霊に結ばれていることを私たちはここで教えられます。もしも教会が分裂してしまうようなことになれば、キリストの体がばらばらになるのですし、霊がお互いに反目するということですから、そこにはもはやキリストの実質はなくなります。私たちが召された時の希望も失われます。天の父は、私たちがキリストと共に、天に蓄えられた計り知れない富を受け継ぐようにと、ご自身のもとへ私たちを召し集めてくださいました。その一つの望みをもって、私たちは教会の一致を保つことに力を注ぎます。

  主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ…(5節)

教会の一致の要をパウロはここで述べています。さらに6節では、父である唯一の神についての告白が加えられます。私たちは、教会のかしらとなられた、ただ一人の主イエス・キリストを信じる信仰によって一つに結ばれています。また、主イエスの名による洗礼によって一つに結ばれています。ここにある信仰告白は、すべてのキリスト教会を一つに結ぶ要です。

 宗教改革以降、プロテスタント教会は多くの教派を生み出して今日に至ります。初めて教会を訪れた方は、教会ならどこでも同じだろうと思ってやって来られる方が多いようですが、しばらくすると異なる教えや信仰生活のかたちに触れて戸惑うこともあります。確かに、聖書には様々な教えがあって、教会の実践についても解釈の仕方が時代や地域によって異なったりもしますから、バプテスト、ホーリネス、ルーテル、改革派、長老派などと教会のあり方は多様です。けれども、カトリック教会を含めて、キリスト教会には教会の一致のしるしがあります。父である唯一の神がおられ、救い主である御子イエス・キリストがおられ、洗礼においてキリストの恵みを施す聖霊がおられる、との三位一体の神への告白は、完全な人であり完全な神であるキリストの二性一人格の教理と合わせて、キリスト教会の公同信条として今日に至るまで保たれています。他の面では多様ではあっても、この基本信条に告白されたキリスト教会の信仰は一つです。ですから、霊による教会の一致は、教派の狭い枠を超えて保つ努力が今日でも続けられています。

 教会は一つなのだから、教派の分裂は早急に解消されねばならない、と考える人もあります。けれども、聖書の解釈の相違から生じている、互いの間にある教理や実践の相違は、それぞれが真剣に聖書に向かったところの結果であり、歴史を通じた長い実践の成果であることをまず考慮するべきでしょう。ですから、簡単にはどちらが正しいと決着がつくわけではありません。13節でパウロはこう述べています。

 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。

「ついには」とありますように、「神の子に対する信仰と知識における一致」は、私たちキリスト者の成熟と、教会の成長の結果として達成される目標です。意図的に人為的に合同を勧めても、主の招きに相応しい一致とはなりません。互いに互いの信仰を尊重し合い、学び合いながら、様々な異なる点があっても、主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、と言える、一致点を堅く保って、主イエス・キリストにある平和の絆を守っていくことが大切です。

キリストの賜物と奉仕の業

 この「多様性と一致」という点では、パウロは次のようにも語っていました。『コリントの信徒への手紙一』12章です。

 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。(12—20節)

教派ということを考えるに当たっても、私たちは一律にどこも同じでなくてはならないとは考えません。ただ、自分たちの信仰告白に基づいて、それぞれに一つの信仰において教会が一致することが肝要だと考えます。

 パウロはこの「多様性における一致」を、一個の教会に当てはめて述べています。『コリント書』からもう少し引用しておきますと、続きの12章27節以下で、こう述べます。

 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。(27—28節)

今日の11節以下がこれと同じような論を展開しています。召された私たちはキリストの体であり、ひとり一人がその部分である、のですが、『エフェソ』のこの箇所では、「使徒、預言者、福音宣教者、牧師、教師」は単なる部分であるに留まらず、キリストの賜物だと言います。7節にある「恵みが与えられている」とは、パウロが自分自身のことについて「私は恵みによって使徒とされた」と言っているのと同じで、教会の務めへの召しを「恵み」と言います。8節で引用されているのは『詩編』68編19節で、その御言葉をキリストに当てはめて展開します。キリストは『詩編』にある通り、地上の低いところに下って来られて、パウロや使徒たちを始めとする奉仕者たちを捕らえて昇天され、ご自身の賜物を分け与えられた。「もろもろの天よりも更に高く」すなわち、神の御旨を完全に果たして最も高い位につかれたイエス・キリストは、その至高の座から恵みを施して、使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師を教会に与えられた、ということです。

 11節に並んだ5ないし4つの職務は、みな御言葉の務めです。最後に置かれた「牧者、教師」とあるところは議論がありますが、文法的な細かい点にも配慮して読むと、「牧者である教師」と読んだ方が良いようです。そうしますと4つです。ともかく数は問題ではなくて、それらが御言葉に関する務めであることが重要です。キリストの賜物を受けた、これらの人々を神は教会に恵みとしてお与えになっていて、その働きによって、「聖なる者たち」すなわち教会員を奉仕の業に適した者へと整え、キリストの体である教会を造り上げます。

 「使徒」や「預言者」や「福音宣教者」などは、初期のキリスト教会を特徴付ける特別な賜物ですけれども、それは今の教会では牧師・伝道師が御言葉の役者として受け継いでいます。キリストの体を造り上げる、教会を建て上げるのは、御言葉の務めである、ということを心に留めておきたいと思います。それ故に、教会では説教者が重要な位置を占めます。長老教会の教会政治では、牧師は長老と同じ権限を分け持って会議を行います。けれども、御言葉の務めは宣教長老とも言われる牧師・教師の責任であり賜物です。それは、キリストの召しと特別な賜物のためですから、教会が成長するもしないも説教者の働き次第です。牧師には教会での多くの実務がありますけれども、何のためにその働きに召されたかと言えば、パウロのように御言葉を語り、それによって、教会に召されたひとり一人に分け与えられた賜物を組み合わせて、奉仕の業へと促すためです。それによって、私たちは信仰と知識が増進し、「成熟した人間になり」、イエス・キリストに満ち満ちた教会へと成長させられます。

成熟を目指して

 未熟な子どもであるような信仰生活の態度が誤って奨励されるような向きがあるかも知れません。確かに「天の国はこのようなものたちのものだ」と言って、主イエスは幼子たちを御許に招きました。それは、天の父に対する子どものような純真な心の向け方を教えたことであって、主の召しに相応しく、与えられた賜物を用いて奉仕の業に励む私たちは、やはり、成熟した大人になることが求められます。

 「未熟である」ということは、14節によれば、「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすること」です。現実に教会が時代の風潮に流されて混乱に陥るようなことがしばしばあったからこそ、パウロは各教会に手紙を書き送って、キリストの福音へと立ち戻らせるよう叱咤激励を繰り返しました。そういう未熟なままでも神が憐れんでくださる、と高をくくっているのは、恵みを与える神に対する誠実な態度ではありません。むしろ神は、御言葉の奉仕者を教会に送っておられますし、成長するために必要な、ひとり一人への奉仕の賜物も豊かに備えてくださっています。それを疎かにしないで、神にささげて、成長させていただこうと願うことが、主の召しに相応しい私たちの姿勢ではないでしょうか。

 成長の過程において、私たちは御言葉と聖霊によって強められて、「愛に根ざして真理を語る」ようになると言われています。知識欲旺盛な今の時代にあっては、あれこれと見識を広めたいのも無理もないことと思います。しかし、真の信仰者はキリストの福音に真理を見出しています。議論のための議論や、自分を賢く見せたいがための博覧強記は、キリストの教会には相応しくありません。信仰の一致を保ちながら、キリストの体を造り上げるための知識を貯えて、「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長する」ことが、私たちひとり一人に与えられている召しです。

 教会はキリストの体です。目が耳に向かって要らないなどと言えないように、それぞれに固有の働きが、教会員のひとり一人に与えられています。自分には何も出来ないと卑下したり、臆することなく、それぞれが今与えられているものに感謝して奉仕をしたいと思います。奉仕がしたいのにできない、悩みを抱えておられる方も大勢いることは知っています。しかし、願えばその機会はきっと与えられます。よく言われることですが、第一の奉仕は、集会に集うことです。ここに来て、御言葉に耳を傾けるところから、聖霊の促しが与えられます。体全体の成長のために、皆が必要とされています。

 祈り

キリストの豊かな賜物によって、私たちを愛の内に育んでくださる天の御父、あなたがキリストの十字架によって、ここに新しく造り出してくださった、平和の絆を、どうか世への証しとして、私たちの間で確かに保たせてください。一つの信仰に結ばれて、一つの希望に支えられながら、あなたの召しに応えるための教会生活を共に形づくらせてください。私たちひとり一人を、また長野佐久伝道所を御言葉の導きによって、キリストにある成熟へと向かわせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。