マタイによる福音書26章36-56節

神の平和が実現するため

 

人間イエスの苦しみ

 福音書はイエスの姿を神の御子、約束されたメシアとして描き出す。イエスは時に奇跡を行い、超人的な姿を弟子たちに見せもする。しかし、傍らにいた弟子たちが、復活のイエスに出会うまでその神の子としての本質に気がつかなかったように、イエスはまごうことなき人間であった。イエスは神に背いて罪を置かすことは無かったにしても、われわれと同じように痛みを感じ、人生の喜怒哀楽を過ごされた。

 だから十字架の試練は決して容易いものではない。そこに求められた覚悟は旧約のイサク奉献の出来事に匹敵する。もっとも、創世記が記すのはささげられるイサクの試練ではなく、息子をささげるアブラハムの信仰が試されたのであったが。十字架が過越の出来事であることは既に見た。すなわち、父なる神が一人息子を小羊に見立てて十字架という祭壇で犠牲にささげるのである。創世記は語っていないが、実の父の手によって殺されねばならない息子イサクの心中は推し量るに余ある。それと同じように、われわれはイエスの心中を探ることができよう。「わたしは死ぬばかりに悲しい」とイエスは弱さを曝け出す。われわれの救い主は超人的な強さで神の御旨を果たし得たのではない。弱さを抱えた一人の人間として、祈りの中で神に自分を明け渡そうとした。

 イサク奉献の記事を思い起こしたついでにわれわれは父アブラハムの胸中も察しよう。愛する一人息子を犠牲にするとは信仰の限界を示す行為であった。神の御旨に従うためにアブラハムはそれを果たすのだが、神はアブラハムの真実な信仰を認めてイサクの犠牲を押しとどめた。そして、今度は神がアブラハムの立場に立つ番である。神は自分のために人間の犠牲を求めはしない。人間のために自分が犠牲になることが神の決断であった。

 イエスはその父の御旨に完全に自分を明け渡すために、神に三度祈った。「できれば杯を取り除けてください」とは普通の人間の情であろう。「杯」とは預言者が語った神の怒りを指す。その裁きの深刻さを知りながら、自分から敢えて望む者はいない。しかし、イエスは「御心をなさせたまえ」と祈る。主の祈りを通して弟子たちに教えた通りに。神の御心には人間への愛がある。その御心に信頼して自分をささげる決心を、イエスは祈りを通して成し遂げた。

 かつて人間はエデンの園で神の言葉に背いて罪を犯した。そこから人間は罪人として神に従うことの出来ない者となった。しかし、イエスはゲッセマネの園で、祈りを通して神に完全な服従を果たした人間となった。そこでの祈りにはイエスの全生涯が集約して現れている。イエスはエデンの園で壊された神と人との絆を、ゲッセマネの園で修復したのだ。

救い難い人間たち

 イエスは三人の弟子たちを御自分の祈りの場へ伴わせた。ペトロ、ヨハネ、ヤコブである。この三人は前に山の上で光り輝く姿でモーセとエリヤと語り合うイエスを目撃している。今度はゲッセマネで彼らはイエスの証人となる。

 イエスが彼らを伴われたのは、彼らを必要とされたからではないか。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と、三人がそばにいることをイエスは願った。イエスの祈りはその時の弟子たちには理解できない孤独な祈りだった。まだ、弟子たちはイエスの受難の意味も実際もまだ知らない。それでも、イエスは彼らに一緒にいて欲しかった。昔、預言者ダニエルには三人の友がいた。彼らはバビロンの宮廷で、真の神への信仰を貫こうとしたために、偽りの嫌疑をかけられて燃え盛る炉に投げ込まれたが、主なる神はダニエルとその仲間たちを無傷のまま守られた。その昔のように、できることなら、イエスもその苦しみを弟子たちと一緒に担って欲しかったに違いない。

 だが、御子の受難はやはり御子イエスがひとりで負わねばならない仕事だった。弟子たちはあまりに弱かった。また、人の世は救い難く罪の暗闇に落ち込んでいた。

 イエスは「うつ伏せになって」祈った。全身を投げ出しての完全な服従のしるしである。イエスはこのようにして三度祈り、自分の思いを天の父の御心に委ねていった。「あなたの御心が行われますように」と42節にある。これは、イエスが弟子たちに教えた主の祈りの文句である。イエスは率先してそのように祈り、実際に神の御心に自分を明け渡して行った。

 イエスの少し後ろに従った弟子たちは、そうしてイエスが祈りの格闘している間にも眠り込んでいた。弟子たちは疲れていて目を開けてはおれなかった。ここに「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(35節)と言った勇敢な弟子たちの姿は微塵も無い。「心は燃えても、肉体は弱い」とイエスは言われたのは、霊的な力があふれていても、肉なる人間は弱いものだ」ということである。この肉の弱さ思わずして、自らを誇る自信はただの思い上がりに過ぎないことを、後に弟子たちは思い知った。

 イエスが三度祈られたのは、後でペトロが三度イエスを否むことと対応している。イエスはそのことをご存知であったが、一度毎の祈りが神の御心のためにささげられたのと同時に、ペトロの赦しを願いつつの祈りでもあったであろう。主イエスが祈る傍らで、ペトロを初めとする弟子たちは「わずか一時も目を覚ましている」ことができなかった。そうして弟子たちが「眠っている、休んでいる」間に、「人の子は罪人たちの手に引き渡される」。すなわち、神の御心にある罪人の救いのために、弟子たちをも含めた罪人自身は何の手助けもできない。「わたしたちは決してつまずかない」と誓った弟子たちであったが、イエスが逮捕されるや否や、彼らは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

 罪人の救い難さは、イエスに対するあからさまな敵意をもった人々のうちに表れる。イエスに最も近い十二弟子の一人が敵に寝返り、イエスに敵対する群衆を先導する。ユダは何気ない顔でイエスに近寄り接吻する。その親愛の情を表わす仕草が、裏切りの合図となる。こうしてユダはイエスが偽善者として糾弾した者たちの仲間であることを証明した。神の愛に生きたイエスを金のために売り渡したユダには愛がわからない。だから彼にとって接吻も形だけのことでしかない。イエスが説いた神の国の教え一つ一つにしても、ユダにとっては言葉でしかないのであろう。彼はその言葉の命に触れていない。

 イエスを逮捕しようと取り囲む大勢の群衆は皆、剣や棒で武装している。「まるで強盗にでも向かうようだ」とイエスは彼らの思い違いを指摘する。イエスが神殿の境内でおとなしく座って教えている時には、人々は何もしなでいた。彼らの行動は白日の下で堂々と行うことができない暗闇の業である。彼らはまるで強盗のようにイエスに立ち向かって来た。

 弟子の一人が剣をとって防戦に回り、大祭司の手下に打ちかかって、その片方の耳を切り落とした。ヨハネ福音書によれば、その弟子はペトロで、耳を切り落とされた兵士はマルコスであった。しかし、イエスは弟子を諌めて抵抗を拒否した。それは、暴力によって何事も自分の思いどおりにしようと働く世の勢力に与しないためである。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」。この諺はことさら旧約聖書から取られたものではなく、当時一般的に流通していたものと言われる。世の中は暴力が最後に支配することを本当には信じていない。必要悪だと、正当防衛だと、認めざるを得ないと思っている。使徒パウロも、世の権力者が剣を帯びているのは正義のためだと述べている。現実はその通りだとしても、それがすべてだとしてしまう世の中には救いはない。たとえそれが正当防衛だとしても、暴力は暴力を生むばかりであることは皆が承知している。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」。

 イエスは暴力を用いない。それは、出来ないものの言い逃れではない。神が力を振るえばこの世の一切は滅びる。旧約聖書には神に逆らって滅びた人々の幾つもの話が伝えられている。イエスもまた、「わたしが願えば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださる」という。人間の暴力に対抗する力が神の側にないわけではない。ただ、神はそれを御心のために用いない。神がお選びになった方法は、力をもたない一人の人間が、自らの命を犠牲にすることによって、救い難い罪人の命を救うことである。イエスはそのために、十字架にかからねばならない。その定められた道を、父なる神のために、愛する弟子たちのために、そして、裏切り者のユダや武装する群衆たちのような救い難い罪人たちのために、苦悶の祈りを通して自ら引き受けて行かれる。かつて預言者たちを通して神がお告げになっていた救いは、こうして御子イエス・キリストの完全な服従によって実現する。

神の平和が実現するために

 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と、主イエスは御自身の祈りに私たちを招かれる。それは、「あなたの御心が行われますように」と天の父の御心に私たちの思いを合わせる祈りである。神はイエス・キリストを通して御自身の御旨を現された。それは、聖書に書き留められた神の御旨の現れでもある。イエス・キリストが神の言葉であり、イエスを見た者は神を見たのだ、とはヨハネ福音書が伝えるところでもある。神の求める正義は、人間の罪の上に怒りを注がずにはおれない。我々の良心がそう感じ取るように、不正義がまかり通り、人間の残酷さが露になる世の中は神には堪え難いものである。しかし、「剣には剣を」、暴力には暴力をもって報いる仕方では人間は滅びる他は無い。神が定めた救いの道は、まず、救い難い人間の罪を赦すことから始まる。イエスの犠牲によって罪は赦されるものとなる。御子にとってはそれがどんなに不当な仕打ちであろうと、御子は父の御心を信じて怒りの杯を飲み干される。

 御子の十字架によって人の罪が赦されるのは、それによって剣を納めるためである。人間イエスの戦いは、罪の世界に立ち向かう命がけの戦いであった。それは、悶絶するような祈りによる戦いであった。人間のひ弱さと、裏切りと、野蛮な敵意に囲まれて、イエスはひたすら神の御心である慈愛に徹することで、この世の罪との戦いに勝利された。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」との励ましが、今や主の戦いをそのように知る私たちに向けられている。私たちには信仰の眠りに落ちてしまう弱さがある。ユダのように、信仰を諦めてこの世の現実に加担してしまうかもしれない恐れもある。私たちの社会は構造的な暴力に縛り付けられていて身動きが取れない。しかし、キリストに従う弟子たちは自分たちの罪をそのように知りながら、なす術が無い訳ではない。目を覚まして、イエスと共に祈る。その祈りによって、私たちは神の御心に自分たちをささげて、愛に徹して生きる。それが、キリスト者の積極的な戦い方となる。

 神は御子キリストを世に送って救いの希望をお与えになった。救い難い私たちではあるが、神は御子によって世を救われる。その働きは今も私たちの間で行われる。剣をとらないキリスト者の戦いは、平和のための戦いである。私たちは武装しない。むしろ、神の前に身を投げ出すようにして、すべてを委ねて、祈りをささげる。もちろん、祈りは形式の問題ではない。イエスがそうであったように、自分の思いを退けて神の御心をいただくための心の修練である。そのようにして、私たちは神がお造りになる平和を目指して、キリストに従って行く。誘惑に陥らないよう気をつけながら、イエスと共に目を覚まして、天の父の御心が実現するように祈り続けていたい。主イエスは今も生きて真の平和のために働いておられる。聖霊を通して、祈る私たちの中に生きて働いておられる。キリストに現れた神の御心である愛を信じて、この世を明るく照らす光でありたい。

祈り

天の父なる御神、世界とその中に生きる自分自身に目を注ぐ時、私たちは本当の希望を持つことが出来ず、世の中の暗さに落ち込んでしまいます。けれども、あなたは御子をお送りになって、その闇の中に救いを用意してくださいました。御子を通してあなたがお示しになった良き御心を信じて、あなたが実現される平和に希望を持つことができるようにしてください。そして、私たちひとり一人の献身が、平和を心から待ち望むすべての人の希望となりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。