ヨシュア記7章1〜26節「アカンの罪」

 

異邦人の裁きと救い

 ヨシュアとイスラエルはモーセの掟に従ってエリコの町を滅ぼし尽くしました。その出来事が伝えるのは、「神ではない神々」(ガラテヤ4章)に服する世界に対する神の裁きの宣告です。真の神を持たない世界は完全に火で焼き尽くされる、という運命が、世界に向けて聖書から告げられています。6章の記述にあっては、ヨシュアとイスラエルは神の裁きを実行するための道具立てに過ぎません。

 では、そのようにして神はイスラエルの外にある世界を滅ぼされるだけなのか、と、エリコの聖絶の記事だけで判断することはできません。6章の記述の中にも遊女ラハブの救出が含まれています。異邦人であり、売春婦であっても、真の神を畏れる者は神の憐れみの対象となります。ラハブだけではなく、その親族一同が滅びを免れたと物語は伝えます。一人の異邦人が悔い改めるなら、その救いの及ぶ範囲も大きい、ということです。神の裁きに定められた世界にも救いはあります。

滅ぼされるべきイスラエル

 続く7章で、今度はイスラエルの民が罪のために神の裁きに直面します。「イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった」と1節で7章の主題が挙げられます。「不誠実」とは、神の恵みの契約に対して忠実に答えなかった、ということです。民数記5章12節で、妻が不実を犯して夫を欺く、という時の「欺き」がそれです。

 「滅ぼし尽くしてささげるべきこと」とは、別の翻訳では「聖絶」といいます。エリコの聖絶に際して、実はイスラエルはモーセの律法に忠実に従ってはいなかった。アカンという一人の男が、密かに共同体の信仰を裏切る行為に出たのでした。しかし、神の怒りはアカン一人の上にくだるのではありません。1節の終わりにあるように、「主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた」とあります。アカンの罪は、イスラエルの背信を暴く行為でした。

 そのことが、エリコに続くアイへの作戦で明らかになります。ヨシュアがアイに送ったスパイは、相手が「取るに足りない」ことを報告します。かつて、「カナンには巨人がいる」と怯えまくっていた先代とは大違いです。エリコの奇跡的な征服で勢いづいています。そこで精鋭三千人の部隊で攻撃を試みますが、あえなく反撃されて36人の犠牲者を出してしまいます。結果としてイスラエルの民は「心が挫けて、水のようになり」、先代と同じ轍を踏むことになりました。

 ここにある信仰の問題は明らかです。イスラエルが敗走した原因は、アイの攻略を自分の戦いにしたことです。カナンの土地を与えるとの約束は、神の力によってこそ働きます。エリコの壁が崩れ落ちたのも神の裁きが直接そこに下されたからです。しかし、慢心したイスラエルは敵の兵力が自分たちに劣ると見て取り、自分の力で敵をねじ伏せようと戦いに出ました。自分の力で約束の地を奪おうと戦ったわけです。それは、神の土地の強奪に他なりません。「滅ぼし尽くすささげもの」は神へのささげものです。人間の欲に基づいて互いに相手を支配しようと土地や財産を奪い合う戦争とは意味が違います。それを、自分の力を頼りにして、ただの戦争のレベルに引き下げてしまったところに、神に対するイスラエルの忠誠は見られません。「イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破った」と、神はイスラエルを断罪します。そのように神との契約から飛び出て「普通の民」になるのであれば、イスラエルはそこから「滅ぼし尽くされるべきもの」へ転落します。

罪の告白と裁き

 イスラエルの罪は、アカンの犯罪行為に顕在化しています。そして、それを取り除くことでイスラエルは滅びを免れます。犯罪の摘出に当たっては、神の指摘が仰がれます。14節から18節に記された方法は、その選別方式を明らかにしていませんが、おそらく「ウリムとトンミム」のような籤が用いられています。旧約時代には、籤は神の意志を仰ぐ手段として合法的に用いられました。そして、籤はユダ族のアカンを選び出しました。

 罪が指摘された後のアカンとヨシュアの対話は何か不思議な感じもします。ヨシュアはアカンに「わたしの子よ」と呼びかけます。まるで、パウロが教会の兄弟姉妹に手紙を書き送るときの口調です。アカンもまた嘘を突き通すでもなく、自分の犯した罪を率直に告白します。アカンの罪は、神にささげるべきものを、「欲しくなって」自分のものにしたことでした。これによって、アカンは自らを「滅ぼし尽くしてささげられるべきもの」にしてしまいました。聖絶のささげものは、こうして、アカンと彼に属するすべてのものと共に火で焼き尽くされ、神にささげられました。「主の激しい怒りはこうしてやんだ」とある通り、アカンに対する裁きは、全イスラエルの罪を購うための犠牲のささげものとなりました。それが分かっていたからこそ、アカンは包み隠さず神の前に罪を告白し、裁きを受けたのでしょう。そうでなければ、イスラエル全体が滅びることになります。

 アカンの家族が不憫だとの人情にも駆られます。確かにその通りですが、神が不義を犯しているのでもありません。ここに指摘されている罪の問題は、一人が犯した罪は個人の問題では済まない場合がある、ということです。たとえば、アダムとエバのことを考えます。最初に創造された人類の父と母です。二人はエデンの園で神の掟を破りました。その罪は、彼らから生まれるすべての人間の運命を死に定めました。何かと個人中心にしか物事を考えられない現代の私たちとは違って、旧約のイスラエルの民は、互いに影響しあう人と人とのつながりを真剣に考えていました。たとえば、一刻の王が戦いにおいて判断を誤ります。すると、その責任を結果的に負わねばならないのは国民です。戦いに敗れれば、国民全体が敵の奴隷になります。アカンは家族の長でした。イスラエルにあってはアカンの信仰が家族の信仰です。長が罪を置かせばその影響は家族全体に及び、裁きは免れません。十戒にはこういう文言が含まれています。

 わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(出エジプト記20章5、6節)

 罪責の及ぶ範囲については、預言者の時代に新しく問われます。もはや親の罪は子に責任を問わず、本人に犯した罪は本人が償わなくてはならないとされます。この辺りの理解は一様ではないので、その両方の教えを弁えて置かなくてはなりません。

 アカンの一族が滅びたことは、前の章でラハブの家族が救われたことと対をなしています。私が救われることは、私に続く他の人々が救われることにつながります。私が罪を犯して滅びることは、私につながる多くの人々が滅びることにつながります。ここから教会に生きる私たちの、それぞれ自分の救いについての意義を深く考えてみることができると思います。

アコルの谷の記憶

 ヨシュアとイスラエルの民は、アコルの谷に築かれた大きな石塚によって、主を裏切って一つの家族が滅びることになった痛恨の出来事を記憶します。神との契約に対するイスラエルひとり一人の忠実さが神の前に問われます。民が一つに心を合わせて神の御旨を果たすのでなければ、約束の土地は清められず、神の御計画は果たされません。神の御計画は世界を滅ぼして清めることではありません。これは聖書全体から読み取られなければなりませんが、神がアブラハムに与えた約束の初めを想い起こせば、神は世界に祝福を与えるためにすべてを計画されています。アコルの谷の記念碑は、人類が直面した滅びの記念碑です。神との関係をないがしろにして、その絆を断ち切って滅びるのではなく、神のものを神へとささげて、命を得ることが神の御旨に適ったことです。

 アコルの石塚は、全イスラエルのために裁きを受けた人の記念として、やはり遠くイエスの十字架を指し示しています。やがて、神は罪の無い方を罪あるものとしてお裁きになり、イスラエルのすべての人々と共に、赦しを願うすべての罪人を、滅びから免れさせてくださいます。神の激しい怒りは、その十字架によって取り去られます。ささげものは既にイエス・キリストによって果たされて、神の恵みはただ信仰だけを私たちに求めています。

祈り

天の父なる御神、あなたの御前にあって私たちの罪は隠すことが出来ず、それが裁かれるのでしたら、私たちは災いを身に受けて死んで滅びる他はありません。しかし、あなたは御子キリストにあって、私たちの罪を許し、恵みによって命を与えてくださいます。どうか、私たちをキリストへの信仰に生かし、私たちに連なる人々にも救いの道を開いてください。滅びに直面した罪深い世界に、あなたの正しさと憐れみとが輝きますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。