ヨシュア記11章1ー23節「カナンの征服」

 

カナン征服の終わり

 この11章でヨシュア記の記述は一つの山場を迎えます。15節では、主がモーセに命じたことのすべてがヨシュアによって完全に実行されたと告げられます。そして、23節では、ヨシュアによる土地の征服が完了して、モーセを通して語られた主の御言葉がここに成就したことが記されます。これは、ヨシュア記の物語ばかりでなく、創世記以来書き継がれて来た救済史、つまり、イスラエルが神の御前を歩んだ救いの物語が一先ずの決着をみたことを表わします。神はアブラハムとその子孫にカナンの土地を与えると約束されました。そして、モーセを通して、その子孫であるイスラエルに契約の言葉を与えられ、律法に忠実であれば土地での祝福が保たれ、律法を破れば呪いによって滅びると告げられました。そうした神の約束が、ヨシュアのもとでイスラエルについに成就します。

 10章ではカナン南部の征服が語られましたが、続いて11章では北部での戦闘が報告されます。中心にはハツォルという町があり、その周辺の王たちに招集がかかってイスラエルに対抗します。戦場は「メロムの水場」であって、ガリラヤ湖の北西にあたる地域です。ハツォルの王ヤビンは士師記や詩編にも登場しますからよく知られていますが、その他の町や王の名は他ではあまり知られていません。ともかく、彼らは「カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、ヒビ人」であって、モーセが申命記で聖絶せよと命じた6つの民でした。

 ヨシュアとイスラエルの勝利を聞いて、王たちは動き始めたと冒頭で伝えられていますが、これはヨシュア記がこれまで幾度となく書いて来た仕方です。たとえば5章ではアモリ人の王たちとカナン人の王たちがヨシュアたちのヨルダン徒渉を知って戦意を挫かれたとありましたし、9章ではヨルダン西岸の6つの民がすでにイスラエルの結束を聞いて戦いに備えた旨が記されていました。他にもこうした動きが数カ所報告されていますが、これが表わすのはヨシュアとイスラエルの行動そのものが、主の御業を知らせるメッセージとなっていることです。モーセの律法に忠実に従うヨシュアの働きは、今や完全に主の言葉そのものになっています。従って、イスラエルに対して敵対する王たちの行動は、主なる神に対する反逆です。

 イスラエルを迎え撃つカナン同盟軍の軍隊は「浜辺の砂の数ほど」と言われ、兵力の差は圧倒的に不利と思われました。しかし、すでにモーセが申命記でこう告げていました。

 あなたが敵に向かって出陣するとき、馬と戦車、また味方より多数の軍勢を見ても恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導き上られたあなたの神、主が共におられるからである。(20章1節)

それを追認するような主の言葉も与えられて、ヨシュアとイスラエルは命じられた通りの翌日に敵の陣営を急襲します。ここには次のような預言者の言葉を重ねて見ることができます。イザヤ書22章5節以下です。

混乱と蹂躙と崩壊の日が/万軍の主なる神から来る。幻の谷に、騒音が響き渡り/山に向かって叫ぶ声がある。(5節)その日には、万軍の主なる神が布告された。嘆くこと、泣くこと/髪をそり、粗布をまとうことを。しかし、見よ、彼らは喜び祝い/牛を殺し、羊を屠り/肉を食らい、酒を飲んで言った。「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」と。万軍の主はわたしの耳に告げられた。「お前たちが死ぬまで/この罪は決して赦されることがない」と/万軍の主なる神が言われた。

預言者の言葉によれば、明日にどのように備えるかが生死の分け目になります。神の戦いを聞いて悔い改めるのであれば憐れみによって死を免れることになるかもしれません。しかし、「どうせ明日は死ぬのだから」と悔い改めることなく刹那に生きているならば、罪の裁きは避けられません。イスラエル軍による急襲は、そうした備えのない人の思いも寄らぬところへ突然訪れる終末的な神の裁きの到来を暗示します。

 イスラエルの戦いは一方的に進み、北の盟主であったハツォルは南のエリコやアイと同じように、ヨシュアによって聖絶されます。「馬の足の筋を切り、戦車を焼き払った」とあるのは、敵の戦力を奪う行為ですから、そうして戦争の終わりを意味するものと思われます。馬が可哀想だ、と感じるのならそれはそれで正しいことだと思います。ただ、聖書の時代とこの文脈では馬は戦車と対になる兵器です。今風に訳せば、「燃料を地にこぼし、戦車を廃棄処分にした」ということになります。

聖絶の意味

 こうして北の敵対勢力は滅ぼされ、ヨシュアの下で聖絶が実行されます。「聖絶」の意味についてはこれまで何度も述べた通りですので、もう詳しくはお話ししません。この文脈では、「こうして神の裁きが完全に実行されて、イスラエルの敵が土地から払拭されて清められた」ことを意味します。聖絶の歴史性を説いて、ジェノサイドの倫理性を問題にするより前に、ここの記事が伝える意味について考えたいと思います。

 ここにはまず、神の約束の成就が報告されていることは先に触れた通りです。神はアブラハムに対する約束に忠実であって、その子孫であるイスラエルにカナンの土地を与えました。これは、選びの民に対する不変のメッセージとなって、神の国の完成を遠く見越しています。ですから、神のイスラエルはその成就を信じて新天地の幻を抱き続けます。現代のイスラエル国がシオニズム運動によって建国を果たしたことにもその幻は作用したはずです。シオニズムは元来、非宗教的な、ユダヤ人コミュニストの努力が大きな役割を果たしていますが、ユダヤ人から宗教を完全に取り去ってシオニズムが成立するはずもありません。かつて神がヨシュアの下で約束を果たして土地を与えたように、今日もその幻を現実にしてくださったのだ、と信じるユダヤ人やキリスト者は多くあります。ただ、キリスト教会はここでユダヤ人シオニストに同調してはいられません。神がキリストにあってお示しになった新天地は、地上のカナンではなくして、天上のエルサレムであるからです。神の国はキリストを信じる私たちの間にある、と主は教えておられます。ヨシュア記での土地征服は、イエス・キリストによる神の国の開始を予め表わすものです。そこで罪と死が完全に滅ぼされて、永遠の命が人の内に生き始めます。

 聖絶そのものが示すのは、そして、神の裁きに直面した人間の運命です。罪ある世界はこの裁きから誰も逃れることができません。預言者が語ったように、悔い改めなくしては一人も赦されることはありません。19節に差し込まれた「ギブオンに住むヒビ人」への言及は、それを意識した上での逃れの道を指し示しています。ギブオン人の計略については9章に記されていました。彼らは主の戦いを恐れ、滅びを覚悟して、嘘をついてまでイスラエルと和平協定を結ぼうとしました。その嘘は咎められましたけれども、イスラエルに救いを求めたその覚悟が認められて、ギブオンのヒビ人は滅ぼされねばならない民に数えられていながらも、それを免れることができました。誰を選び誰を救われるかは神の御旨次第です。ですが、人間にも選択が示されています。罪の裁きを恐れて、滅びを覚悟して悔い改めるか、それとも、「どうせ明日は死ぬ身だ」と自分で自分の運命を定めて滅びてしまうか。それは、「知らせ」を聞いた私たちが自分で判断することです。聖書の「聖絶」が時代を超えて世界に指し示すのは、その選択を促すメッセージです。

歴史を支配する神

 もう一つ、20節で告げられていることについて考えたいと思います。

 彼らの心をかたくなにしてイスラエルと戦わせたのは主であるから、彼らは一片の憐れみを得ることもなく滅ぼし尽くされた。

この状況は、出エジプトの際のファラオと同じです。イスラエルを礼拝に行かせよとのモーセの要求は、心を頑にしたファラオによって何度も退けられましたが、それはエジプトに主の裁きが示されるためであって、神がそのように計らったことだと伝えられています。そうしますと、先にお話しした信仰による選択、とは合わないようにも感じられます。神によって頑にされたのであれば悔い改めの余地がないわけです。ここに神の聖定と人間の自由意志の問題があります。それは、どちらも聖書で保証されています。神は人間の救いについても予め定めておられます。悪人が滅びることも定まっているわけです。では、悪人は救われないのかと言えば、福音が明らかにしているように、悪人、つまり罪人こそ救われるために、神はキリストをお遣わしになりました。そして、キリストを信じる者は無条件に罪を赦していただけます。すべては神の御旨の内にあるのですけれども、しかし、個々の人間には自らの意志で救いを選ぶ意志が与えられています。神の主権に対して、人間の主権を同じレベルで付き合わせる思考ではこれは不合理となります。しかし、神の主権は絶対で、人間のどんな意志によっても妨げることができません。私たちがここで学ぶのは、神は歴史の主催者である、ということです。神の御計画に無いことは歴史には現れません。ヒトラーの登場でさえそうであったということです。そして、そこで働く倫理的な判断は、あくまで人間のレベルで考えなくてはなりません。ヒトラーを生み出した原因は、人間にあります。罪ある人間の社会がすべての悲惨を生み出します。時には人間の手の及ばない自然による災害が起こりますけれども、戦争に代表される人の悲惨の多くは罪の結果です。神の聖定は、そういう世の中であっても、まだ、神の善を信じることができることの根拠です。人生の最悪の事態に至って、それもまた、神が私たちの知らないところで、最終的には私たちの益になるように準備しておられるのに違いないと信じることができる根拠です。カナンの王たちが聖絶にあったのは、人間のレベルで言えば、彼らが頑に悔い改めを拒んで、神に逆らったからです。その罪の責任は本人に問われるべきものです。そこで20節の御言葉が語るのは、その背後にある神の御心です。神はイスラエルの救いを定めておられて、敵を滅ぼし尽くしました。それは、神の意志による、御言葉の成就でした。罪ある世界での私たちの人生には、神のもとから祝福も呪いもやって来ます。私たちがそれにどのように応じようとも、神には私たちの思いとは別の、隠された目的があります。そのすべては私たちには知らされませんが、私たちは聖書からイエス・キリストに至るイスラエルへの恵みの約束が知らされています。たとえどんな災いに見舞われようとも、神に選ばれた者から恵みは取り去られないということです。福音を信じて、神の選びの中へ入って行くことが私たちの意志に求められていることです。そして、それをなしたならば、すべては神の恵みであったと悟らされ、神の恵みの確かさの中で私たちはすべてのことを受けとめることができるようになります。ヨシュアによるカナンの征服は、福音の光の中でこそ正しく受けとめることができます。

祈り

父なる御神、あなたは罪との戦いを私たちにお命じになりました。どうか、主イエス・キリストと共に、あなたの御国を建てる働きへといつも私たちを励まし、送り出してください。その祝福された目標は、あなたがが定めておられることであり、あなたの力ですべてが実現されることをどうか信じさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。